INTERVIEW先輩就農者の声
葛尾村営農 畜産業 など
じいちゃんの遺志を
継いで牛飼いの道へ
葛尾村で黒毛和牛の繁殖を行う下枝宏通(したえだ ひろみち)さん(29)。繁殖とは、母牛に子牛を生ませて生後10ヶ月まで育て上げて子牛を出荷することで、その後、子牛を購入した肥育農家がさらに20ヶ月間育ててお肉になります。2017年4月、下枝さんは誰よりも原発事故による避難からの帰村、営農再開を待ち望んでいた祖父の遺志を引き継いで畜産業を始めました。
牛がいた暮らし
下枝さんの家は葛尾村でずっと畜産業をやっていたんですか?
そうですね、じいちゃんよりもずっと前の代からやってました。自分で何代目なのかはよくわかりません。このへんは畜産をやっていた人が多くて、肉牛の他に乳牛や馬、ヤギを飼ってる家もありました。うちの父は建築関係の会社を経営していてあちこちで仕事をしているので、幼いころから母とじいちゃんが二人で牛の世話をしてたっていう記憶があります。
実家が畜産業をやってると、休みがないとか旅行に行けないとかネガティブなイメージを持つ子どももいるみたいですが、僕の場合はそうでもなかったですね。家のそばに牛舎があったし、近所でも畜産をやってる人が多いのでそういう生活が普通でした。休みは確かにないですけど、餌やりは朝晩だけで昼間は自由だし、二人いればどっちかが休んだりもできますし。ただ、「将来継ぐぞ!」という気持ちもなかったですね。牛って自分よりもかなり大きいので、怖くてどちらかと言うと苦手でした。
震災当時、下枝さんはどちらに?
僕は当時高校の卒業式を終えたころで、浪江町の自動車学校に通ってました。地震があったのは自動車学校からの帰りで、もうかなり山の方に来ていたので津波も免れました。実家では水は井戸水だしガスはプロパンだし、ライフラインに影響はなく、電気も止まりませんでした。この辺りは地盤もしっかりしてるんで、牛舎の被害もありませんでした。
でも原発事故があって、葛尾村は村長判断で全村避難ということになりました。最初は隣町の田村市の親戚の家に、その後は仮設住宅に移りました。僕は4月から就職が決まってたんですが、就職先が南相馬市の会社で、通勤するには高線量地域を通らなきゃいけなかったこともあって内定を辞退、避難先の近くで働くことにしました。それから帰村するまでの5〜6年の間に工業系の仕事をしたり運送系の仕事をしたり、いくつかの会社に勤めました。
取材日:10月15日
取材・文・写真:成影沙紀