INTERVIEW先輩就農者の声
広野町栽培農作物 米、大豆、玉ねぎ など
ピンチはチャンス。
それぞれの10年と、
親子でつくる
これからの農業
広野町で米を中心に大豆、玉ねぎなどを栽培する「新妻有機農園」。江戸時代から続く農家で、代表の父・新妻良平さん(63)が14代目にあたります。2014年に法人化をし、2022年に長男の秀平さん(34)が入社。今シーズン初めての稲刈りの日、そんなお二人にお話を聞きました。
何もない。だから帰りたい
秀平さんは震災当時、大学生だったとか。
息子・秀平さん:はい。3年生でした。東京の大学に通っていて、地震が起きたときは新宿のアルバイト先にいました。東京でも震度6強でしたから、ビルが怖いぐらい軋みました。店の片付けをして歩いて家にたどり着いたのが夜中の2時、そこで初めて津波の映像を見ました。翌日に原発が爆発して、一便だけあった羽田発福島行きの飛行機に乗って帰ってきました。それから1ヶ月が経ち、大学が再開するというので東京に戻ることに。帰りはいわき駅から電車に乗って帰ったんですが、ホームで電車を待ってるときに、「あぁ、帰ってこようー」って思ったんです。
なぜか不安もなく、パーンと直感でそう思いました。東京って何でもあるじゃないですか。大学が神楽坂にあって、新宿で働いてて、住んでいたのが吉祥寺の隣駅。そんな都会の中心で、バイト先では副店長を任せてもらって、すごい仕事してたんで、毎日睡眠時間3時間の生活。一方でここは何もない地域で、それがさらに震災で何もなくなった。電車を待ってるときに辺りがしんとして本当に無音で、「何にもないのもいいな」って思ったんです。何もないところで自分の生活の楽しみを生み出す方が豊かだなって。卒業後は広野町役場に就職して、役場で働きながら親父の農業を手伝っていました。
今年の4月に10年勤めた役場を退職されて農業の道へ。広野町の復興の10年間を行政と農業の現場から見つめてきて、いかがですか?
行政にいたから特に思うのですが、この地域、「地域づくり」ができないんですよね。東電の存在がその理由だと思います。広野町には東電の火力発電所がありますし、原発も近い。震災前は広野町民の多くが東電の関連会社に勤めていました。東電があるから人を呼ばなくても勝手に人が来て、人が住み、そこに仕事が生まれる。ところがそれが突然何もなくなって、「この地域をどうしていきたいか?」という問いを突きつけられたんです。でも、そんなこと真剣に考えたことがなかったから答えられない。町民に考える力というか、自分たちで町を作っていくという意識が他の地域に比べて低いような気がするんです。役場にいたころは後半ずっと、地域のプレーヤーを育てなきゃいけないなって考えてました。
ただ、これはチャンスだと思っています。ピンチはチャンス。原発がなくなることで、この地域は自分たちの力で頑張らなきゃいけなくなったということです。一度ゼロになってしまった地域ですが、裏を返せばこれからの頑張りが全部プラスになるということ。それってすごく面白いじゃないですか。
農業については、「親父が一生懸命農業やってるから絶やすのももったいないな。いつか継ぎたいな」と思っていましたが、今は「農業を軸にした地域づくりをしたい」という気持ちに変わりましたね。
取材日:9月14日
取材・文・写真:成影沙紀