取材や記事制作を通して目の前の人に伴走していきたい
結婚を機に、2018年に愛知県から南相馬市に移住した蒔田志保さん。2023年秋からライターとしての活動を中心に、フリーランスで働いています。移住後にできた人とのつながりから、興味のあった仕事で独立できるまでに仕事を広げていった蒔田さんに、移住までの道のりやお仕事への思いを聞きました。
一度は諦めた移住。幸せを確信して決断できた
――南相馬市とご縁ができたきっかけを教えてください。
京都府の大学に通っていた大学2年生の春に、当時入っていたサークルで踊りを披露しに、福島市や二本松市にあった東日本大震災で被災された方向けの仮設住宅を訪れました。その時、もっと福島の人と話がしたいと思ったんです。その後、サークルの先輩が学習支援のボランティアをしに福島に行っていることをFacebookで知り、子どもと関わるのが楽しそうで、頼んで連れて行ってもらったのが南相馬市でした。
東日本大震災の時、私は遠く離れた愛知県の高校2年生で、あまり震災や原発事故のことに関心が持てませんでした。初めて南相馬市小高区に来た2013年は避難指示の解除前で、家も道も壊れたまま、人はいないのに信号機だけが動いていた。その光景を見て、これまで自分が何も関心を寄せられていなかったことにショックを受けたんです。自分にできることをしようと思い、長期休みのたびに南相馬市の子どもたちのもとへ、学習支援のボランティアに通うようになりました。そこで、夫とも出会いました。
――南相馬で暮らすご主人との結婚を機に移住したのですか?
そうです。ただ、それより前の大学卒業のタイミングでも一度、移住は考えていました。小高が被災した姿に衝撃を受けた私は当時、「小高のために何かしたい」という気持ちがすごく強かった。内定はいただいた企業がありましたが、南相馬で就職することを検討しないまま進路を決めたくなくて、立ち上げ間もない小高ワーカーズベースで1ヵ月間、インターンシップをさせてもらいました。
そこで分かったのは、いま小高で何かをしている人たちは「ここで暮らしたい」という、ものすごく強い気持ちを持って生活の再建をしようとしていること。そうでないといられない町だと、当時は感じてしまったんです。自分自身の幸せよりも、小高で暮らそうとしている人の幸せを優先させることはできないとも感じ、結局は地元・愛知県で飲食業に就きました。
――そこから3年半経って、結婚のタイミングで移住することに抵抗はなかったのですか?
自分が幸せと思えないなら、移住はできないと思っていましたが、そう思えたのが結婚というタイミングでした。また、2016年に避難指示が解除されたのを皮切りに小高のまちが生まれ変わっていく姿を、SNSを見たり現地にいる夫から話を聞いたりして感じていたんです。自分でも、足を運びました。カフェができて、本屋ができて、小高パイオニアヴィレッジの話も出てきて、そして実際に生活している人たちの表情を見たら、もう私が行っても大丈夫と納得できたんです。
出産を機に本格的にライターの道へ
――ライターのお仕事をするようになったきっかけを教えてください。
南相馬に移住した後は、Odaka Micro Stand Bar オムスビ(現:アオスバシ)のカフェでアルバイトをしていました。週3日の勤務ですごく時間があって、何かしなきゃと焦り、noteをたくさん書いていたんです。移住間もない頃だったからか、南相馬での暮らしについて発信したいという気持ちもありました。そんな時、浪江町のイベントでローカルライターの山根麻衣子さんと知り合い、地域のWebサイトのニュース記事を書く仕事を紹介していただいたのが初めてのお仕事でした。でも、別のお仕事で「このまま職業としてライターを名乗るのはまずいかもしれない」と思う出来事があり、書く仕事からは離れたことも。
――再開のタイミングは何だったのですか?
長男を妊娠して自分の都合だけでは生きられないと実感したんです。自分で仕事量をコントロールしたくて、手に職をつけようと考えた時に思い浮かんだのが、ライターの仕事でした。夫が1年間育休を取っている間に、3ヵ月ほどオンラインでライター講座を受けて、文章の組み立て方や論理的な伝え方を学びました。それが理解できると、添削課題で指摘を受けることも面白く思えたんです。悔しい思いもするけど、良くなったら素直に受け取れる。そうしてライターで生きていく覚悟が固まっていきました。最初は山根さんや、南相馬市を拠点に活動するデザイナーの西山里佳さんなど、周りの方に本格的にライターの仕事がしたいと伝える中で、声を掛けていただけるようになりました。
――本格的にフリーランスのライターになろうと決めたきっかけはどんなことでしたか?
カフェの仕事は小高が楽しい場所であってほしいという思いから続けていましたが、移住から3年半が経ち、小高でも飲食店が増えてきたんです。これまで担ってきたカフェでの「おいしいコーヒーを出す」という小高での役割を誰かがやってくれるようになったこと、子育てしながら飲食店で仕事を続ける難しさを感じたことから、カフェからの“卒業”を決めました。
実は、安定した雇用を求めて転職活動もしたのですが、南相馬では通える範囲では希望条件で働けそうな会社と出合えず、フルリモートかつフレックスでできる仕事もなかなかヒットしなくて。そうであれば、増えてきたライティングの仕事と新しく買ったカメラでフリーランスとして挑戦しようと思ったんです。2023年9月にカフェを退職してフリーランスのライターと名乗るようになりました。
地元の人間だからこそ、良いものを伝えられる
――フリーランスになってからはどんなお仕事をされていますか?
Webのインタビュー記事や、南相馬市サポーターの会報誌「ミナミソウマガジン」の制作に携わらせていただいています。地域の企業や自治体から、これまでのつながりをきっかけにご依頼いただくことがこれまでは多いです。ライターの仕事を始めて3年近く経ち、認知されるようになってきたこともあってか、イベントの撮影など、仕事の幅の広がりを感じています。前職のカフェにも、シフト管理などの後方支援で業務委託で関わっているので、さまざまな人と関わりながらお仕事できるのが嬉しいです。
――仕事で気を付けていることはどんなことですか?
安心してお仕事できる関係性づくりですね。特に東日本大震災や原発事故で被災された方に取材させていただく時には、被災の体験がその方にとってどんなものなのかという点は、できる限り調べたり、想像したりしながら話を聞いています。
お仕事を依頼してくださる方との関係性もすごく大事だと思います。
私ははじめ、カフェの仕事や地域のイベントで出会った方からご縁が広がっていきましたが、仕事をする中で仕事への覚悟や成果物のクオリティを認めてもらえたからこそ、繰り返しお仕事を依頼してくださる方もいらっしゃるんじゃないかなって。良いものを作りたいという気持ちがお互い感じられれば、フラットに意見を言い合えたり、無理のないスケジュールを相談したりするのも、かしこまらずにできるのでありがたいです。
――ライターの仕事の魅力はどのように感じていますか?
私は自分が関わることで、目の前の人に何か気付きや変化が生まれることが嬉しいんです。カフェの仕事では、例えば「このコーヒーはこんな味がして、こんなものと合わせると美味しいですよ」と伝えることで、一杯のコーヒーを巡ってお客様の気持ちが前向きに変わっていくといいなと思っていました。
ライターの仕事は、取材させていただく方と伴走している気持ちで取材・執筆をしています。インタビューで話すことで自分の気持ちに素直になれるような気付きを得てもらえることや、記事が世に出ることで取り上げた方に何かが還元されること、そして記事を読んでくれた方の世界が広がっていくことがやりがいになっています。
また、一人ひとりの物語を聞くことで、その人を通して地域を見られることも面白いです。同じ浜通りでも、市町村でそれぞれ特色は違っています。南相馬のことを伝えることにおいては、地元の人間だからこそ感じられることがあるとも思うんですよね。
――移住を考えているフリーランスのライターの方にメッセージをお願いします。
震災の影響が大きかった地域で仕事をするのであれば、まずはそこでどんなことがあったかというところに目を向けて、大切にしてもらいたいと思います。クライアントさんは一人ひとりを大切にしてくれる方が多いです。だからこそ、裏を返せば健やかに無理なく仕事を続ける環境づくりはすごく大事。この地域のことを、手を取り合って伝えてくれる人が増えるとうれしいです。
蒔田さんが未来ワークふくしまで執筆・撮影した代表的な記事はこちら。
「新卒で飛び込んだ修行の地でコミュニティマネージャーとして関係性を育む」
「人と関わる暮らしを楽しみ、フリーランスでのびのび働く」
「思い描いた自分の店を実現したくて南相馬で再出発」
「広野町でお惣菜弁当屋を開業。家族の近くで料理を通して人を助けたい」
蒔田志保(まきた しほ) さん
1993年、愛知県春日井市出身のライター・カメラマン。大学2年生から学習支援のボランティアで南相馬市の子どもたちの支援を始め、南相馬市と縁ができる。愛知県での飲食店勤務を経て、2018年に南相馬市の男性との結婚を機に、南相馬市へ移住。Odaka Micro Stand Bar オムスビ(現:アオスバシ)での勤務、出産を経て2023年秋にフリーランスに。
※所属や内容は取材当時のものです。
文・写真:五十嵐秋音