移住者インタビュー

分断と対立の社会から、分かり合う社会へ。居住人口約2,100人の浪江町で、野地雄太さんが中高生に「世界とつながるきっかけ」をつくる理由

2024年2月2日
浪江町
  • 起業・開業

今回ご紹介する株式会社Beyond Lab(ビヨンドラボ)代表の野地雄太(のじ・ゆうた)さんは、アメリカ留学をしたことで見える世界が変わったといいます。現在は、留学で見たこと、感じたこと、考えたことを中高生へ伝えようと、日本で、しかも居住人口約2,100人のまちで世界とつながるきっかけづくりをしています。

野地さんが拠点としているのは、福島県浜通り地方に位置する浪江町です。

浪江は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により約21,000人いるすべての町民が避難を余儀なくされました。2017年に一部地域の避難指示が解除となり、6年たった現在では約2,100人(2023年11月末時点)が暮らしています。

広い視野で多様性を受け入れ合うことの大切さを、なぜ中高生へ伝えたいのか。なぜ、浪江町を選んだのか。野地さんがこの場所で描く未来について伺いました。

野地雄太(のじゆうた)
1995年、福島県福島市生まれ。米ミネソタ大学College of Liberal Arts(社会学専攻)卒業。2021年、地方創生を手掛けるベンチャー企業に入社。福島県浜通りの若手起業家を支援する「HAMADOORIフェニックスプロジェクト」でアイデアが採択され、2022年2月に独立し、浪江町で株式会社Beyond Labを創業。中高生を対象に留学体験プログラム「ビヨンドキャンプ」を企画・開催している。

異文化に触れ、出会い、可能性を広げてほしい

野地さん 「自分と違う考えを理解しようという姿勢を持たないと、社会の分断はどんどん進んでしまうと感じたんです。それに立ち向かうすべが『教育』だと思いました」

静かに、言葉を選んで話す野地さん。野地さんはいま浪江町で、多文化共生事業を展開する「Beyond Lab(ビヨンド・ラボ)」を立ち上げ、異文化交流や言語学習を通じて中高生の世界を広げるサポートを行っています。

浪江町の風景

野地さんが事業の柱とする「Beyond Camp」は、日本にいながら多様な価値観に触れる留学体験を提供する、合宿型のプログラムです。フィールドワークやキャンプファイヤー、英語でのチームプレゼンテーションなどを通じて、世界中からきた留学生とリアルなコミュニケーションや共同生活を通し、異なる文化に触れることで、視野を広げて好奇心を育てる機会をつくっています。

2022年から現在までに福島県内で9回開催していて、毎回10〜30人の中高生が参加しているそうです。

2022年に開催された「Beyond Camp in NAMIE」の様子(野地さん提供)
2023年に開催されたBeyond Camp in 郡山の様子(野地さん提供)

野地さん 「Beyond Campでは、基本的に英語で留学生たちと生活をともにします。家族や友だちとの関係性の中では、言葉に出さなくても通じ合えることが多いですが、ここではそうはいきません。言語や文化の違う相手とは、自分の思いや考えを伝えるためにコミュニケーションが必要です。相手のことを想像する力がなければ、ミスコミュニケーションが起きてしまう。だから相手を知る、聞く姿勢が必要になる。そういった気づきが柔軟な価値観をつくる土台になると思うんです」

キャンプに参加するほとんどの中高生は、間違えることを恐れて英語で話すことを躊躇するそうですが、プログラム中に大胆に変化していくから面白いと野地さんは言います。

野地さん 「はじめはシャイな子たちが多いのですが、間違ってもいいから伝えてみようと、どんどん積極的になっていく姿が印象的です。人って必要にせまられると、変われるんですよね。変わろうとするときは痛みはあるかもしれないけど、次の扉から見える世界が広がるからこそ好奇心が育つのだと思います」

現在、野地さんは福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校でのワークショップや個人向けの英会話レッスンも行っています。多様な人や価値観との出会いで「可能性は広げられる」ことを伝えるために奮闘しています。

世界を知って、自分のできることを探したい

野地さんの人生に大きな影響を与えたのは、中学3年生の卒業式の日に経験した東日本大震災です。

福島市出身の野地さんは津波と原発事故の直接的な被害は受けずに済んだものの、感じた大きなインパクトは傍観者でいることから、当事者意識へと変化をもたらしました。

そこで、福島の高校生だからこそできることに取り組みたいと考え、農業の風評被害を払しょくするプロジェクトに参加。復興のために命をかけて取り組む地域の大人の姿を見て、それまで意識することのなかった地元に対する想いが強まったといいます。

野地さん 「外の世界へ目を向けるきっかけは、高校2年生の冬です。中国から福島の視察に来た留学生をアテンドするプロジェクトに参加しました。英語でコミュニケーションを取ろうと準備をして待ち構えていたのですが、彼らは日本語がペラペラでまったく使う機会がありませんでした(笑)。彼らの英語力、コミュニケーション能力にも圧倒されて、『自分と同い年なのにこの差はどこから生まれるのだろう』と疑問に思いました。太刀打ちできなかったことが悔しかったんです」

野地さんは、この頃から日本と世界の違いを意識するようになりました。

なかでも興味を持ったのは、国際機関「ユニセフ」や難民支援機関の活動でした。日本では想像もできないような貧困や紛争が世界で起きている。話を聞いたり調べたりするうちに、「ひとりの視点だけでは解決策を見いだせないのではないか」「もっとたくさんの価値観に触れて世界を広げたい」と、焦りにも似た感情が沸き起こりました。

光が差したのは、アメリカの大学に進学し国際機関で働く高校のOBの講演会を聞いたことでした。日本の大学以外へ行く選択肢もあると知った野地さんは、世界を知るために、アメリカの大学進学を目指します。

とはいえ、「恥ずかしいので同級生には隠していた」とはにかむ一面も。孤独な受験勉強はオンラインで全国の仲間とつながって乗り越えたそうです。ひたむきな努力の末に、アメリカ行きの切符を掴み取りました。

学びは人生を大きく左右する。だから教育に関わりたい

ミズーリ州のリベラルアーツカレッジに進学した野地さんは、これが初海外。日本で勉強してきた英語はまったく通じず、当初は「なんでアメリカの大学に進学しちゃったんだろう」と思ったこともあったそうです。しかし、言葉の壁は行動することで乗り越えていきました。

エクアドルや韓国から来た留学生たちと勉強会を開いて学び合ったり、たくさんの人とのつながりを持つためにサークルを何個も掛け持ちしました。

野地さん 「親に高い学費を出してもらってアメリカに来ているのだから、結果を残さなければ帰れないと必死でした。心が折れそうなときには『志を得ざれば再び此地を踏まず』という言葉を支えにしていました」

この言葉は、福島県出身の細菌学者・野口英世が上京するときに「医者になれなければ生まれ故郷には帰らない」という強い決意を自宅の床柱に刻んだもの。野地さんは、この言葉で自身を奮い立たせ、留学生活を前向きに過ごしました。

3年生でミネソタ大学に編入し、社会学を専攻。キャンパス内だけでなく、もっと外へ目を向けてリアルな社会に触れたいと考え、休学して途上国と言われる国々を巡ります。

ベトナムやインドネシア、カンボジア、バングラデシュ、ルワンダを訪ね、インターンをしたり、国際協力の現場を視察したりするなかで、どの国でも感じることがありました。

バングラデシュの社会起業家たちと(野地さん提供)
大学一年生の時に撮ったアメリカの大学の同級生たちと(野地さん提供)

野地さん 「教育の大切さです。アフリカの孤児院を視察した際、寄付金で建てられた学校で子どもたちが目を輝かせて授業を受ける姿を見て『学びは人生を大きく左右する』と実感しました。

一方で、スラム街には路上で物を売る子どもたちの姿がありました。その子たちから物を買っても一時的で、本当の支援にはなりません。子どもたちが自分で考え、人生を決められるような教育を受けられることが、根本的な解決につながるのではないだろうかと感じました」

なぜ、浪江町を選んだのか

野地さんは、漠然と子どもたちの選択肢を広げる仕事がしたいと考えるようになりました。それが海外でなのか、日本でなのか、本気で取り組みたいと思える場所はまだ見えていませんでした。

キャリアの方向性を決めるために休学して日本に一時帰国した野地さんは、学生団体を立ち上げ、首都圏の学生に向けて原発被災地域をめぐるスタディーツアーを企画しました。

企画を立てたのには理由があります。留学中に「福島って住めるの?」と聞かれることが何度かあったのです。悔しさを感じても、自分の言葉できちんと説明ができない。だからこそ、自分自身の目で見て現状を知りたいと考えました。

浪江町でのスタディツアー。最終日に参加者たちと振り返りをしているときの様子(野地さん提供)

野地さん 「現状を見て、地域の方や東電の方から話を聞き、対話を重ねていくうちに、この地域で自分ができることはないだろうかと思うようになりました。

浪江町では熱量を持って復興に向けて取り組み、フロンティア精神に溢れる人たちに出会いました。その方たちに惹かれて何度も足を運ぶうちに、伸びしろのある地域でチャレンジしてみたいと思うようになったんです」

浪江町で花卉の営農を再開したNPO法人JINの川村博さんと(野地さん提供)

野地さんは大学卒業後、起業を目指す若者と地域企業をマッチングさせる起業家育成プログラム「VENTURE FOR JAPAN」を利用し、福島県相馬市のベンチャー企業に就職。その代表から「応募してみたら?」とすすめられたのが、福島県浜通りの若手起業家を支援する「HAMADOORIフェニックスプロジェクト(※)」でした。

「地方でも多様な人と関わる機会をつくり、世界を広げるきっかけをつくりたい」という野地さんのプロジェクトは採択され、2022年2月に株式会社「Beyond Lab」を立ち上げました。

(※) 補助上限額は年間1,000万円未満(補助対象経費の100%以内)、最大3年間の資金援助を受けることができる。

想像力をもてば、世界はもっとやさしくなる

野地さんが目指すのは、固定観念に縛られることなく、広い視野を持って多様性を受け入れ合う大切さを育てること。それは、アメリカ留学中に多文化共生の課題に直面したことが大きく影響しています。

野地さん 「2016年の在学中に大統領選挙が行われて、トランプ政権が誕生しました。共和党支持者と民主党支持者の対立は、社会の分断を生み出していきました。

その状況を目の当たりにして、多様性があっても自分と異なる考えや意見を持つ人を理解しようとする想像力がないと、社会は分断してしまうんだと感じたんです。

これから日本でも多様化が進んでいくと思うのですが、自分だけよければいいと考えたり、違う考えの人を排除してしまったら、同じような分断が起きてしまいます。

相手をリスペクトし心を開いて対話をすることで、いろいろな視点を持つことができると思うんです。想像力を育むためには多様な文化や価値観に触れることが必要です。それをこの場所からはじめていきたいんです」

国境という壁、人種という壁、言語という壁、男女という壁。もしかすると、家族内にも様々な壁があるかもしれません。それでも相手のことを理解しようとする想像力は、人や社会を思いやることにつながっていくと野地さんはいいます。今は小さな点でも、想像力を育んだ中高生たちが大人になり下の世代へつないでいくことで、世界はやさしくなれるのかもしれません。

取材・文:奥村サヤ 撮影:中村幸稚 編集:増村江利子

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