移住者インタビュー

ビジネスマンの肩書きを捨て、福島の住民として生きていく

2023年2月10日
浪江町
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コロナ禍以降リモートワークの導入が加速していき、どこからでも仕事ができる時代。それでも移住を選択し、地域に根ざして働くとはどういうことなのか。そんな問いを持って今回お話を伺ったのは、2021年に福島県浪江町に移住をした高橋大就(たかはし・だいじゅ)さん

中学時代から社会問題に関心のあった高橋さんは、震災後の2011年に食の領域で東北支援をおこなう「一般社団法人東の食の会」を立ち上げ、国産サバを洋風に加工した三陸地域のオリジナルブランド「Ça va(サヴァ)?缶」や高い栄養素がありながら認知度が低かった海藻「アカモク」のブランディングなど、東北の食材を使ったヒット商品をプロデュースしてきました。

東京で暮らすビジネスマンとして、東北の食材や農家さん、漁師さんの魅力を国内外問わず発信してきた高橋さんですが、2020年3月に福島県南相馬市で「一般社団法人NoMAラボ」を設立、2021年4月に福島県浪江町へ移住しました。

福島の“外にいる人”という立場を強みとして復興支援にあたっていた高橋さんが、なぜ震災後10年というタイミングで移住をし、浪江町の住民になることを決断したのでしょうか。「NoMAラボ」設立、そして移住までの経緯や一人の浪江町民として取り組んでいきたい「コミュニティの再生」について、お話を伺いました。

高橋大就(たかはし・だいじゅ)さん

1999年外務省入省。在米国日本大使館(政務班)での外交官時代を含め、8年半の間外務省に勤める。2008年4月、マッキンゼー・アンド・カンパニーに転職。2011年3月、東日本大震災発災を受けて休職、東北に入る。2011年6月、一般社団法人「東の食の会」発足とともに事務局代表就任。同年8月、オイシックス株式会社(当時)海外事業部長(執行役員)に就任。2020年3月、一般社団法人「NoMAラボ」を設立、代表理事に就任。現在、東の食の会にて東北の食のプロデュースを行い、「サヴァ缶」や「アカモク」などのヒット商品や多くのヒーロー農家・漁師を生み出すと同時に、福島県浪江町に居住し、NoMAラボにて福島県浜通り地域のまちづくりや社会課題解決ビジネスづくりに取り組んでいる。

全員がマイノリティを経験した場所

浜通りのほぼ中央に位置する浪江町。東は太平洋、西は阿武隈山系があり、山も、海もある自然豊かな町です。福島県南部のいわき駅からは常磐線で約1時間で浪江駅に到着します。

浪江町は、原発事故により全町避難指示が出され、2017年3月に一部の避難指示が解除されました。震災前の人口は約2万​​1千人であったところ、2022年12月時点の居住人口は約2千人。そのうち約3分の1が移住者となっており、移住者の割合が高い状況です。

帰還者がいまだ少ない現状ではあるものの、浪江町はさまざまな企業が参入し最先端テクノロジーを目指す“チャレンジシティ”ともいわれています。2020年2月末には水素を製造する施設「福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)」が設立され、発電の際に二酸化炭素を排出しないグリーン水素エネルギーは世界的にも注目を集めています。

今回、高橋さんとお会いした場所は、浪江町の復興のシンボルとも言われる「道の駅なみえ」。

ガラス張りの開放的な空間には、2020年4月に競りが再開された請戸漁港(うけどぎょこう)の海産物を使った料理などをいただけるフードコートや「B−1グランプリ」で優勝した浪江町のソウルフード「なみえ焼きそば」などのお土産品が並んだ直売所、酒蔵、そして無印良品初の“道の駅店舗”が入っており、来町者が訪れるほか、町民にとっても身近な場所となっています。

高橋さんいわく、浪江町の人はおもしろい人ばかり。外からくる移住者を受け入れるオープンマインドと、おもしろいことに挑戦しようとする精神、アイデアの豊富さ、そして自分たちの手でこの町を守っていこうとするポジティブな姿勢があるそう

「『道の駅なみえ』を見てもわかると思うんですが、ももクロが地元の産品とコラボしたりご当地アイドルをプロデュースしたり、酒蔵があってお酒の製造工程を見学できたり、ワンコインで飲み比べ試飲ができたり、とにかく他では見かけないユニークな体験が仕掛けられています。

それらは、外部のコンサルが考えたのではなく、全部地元の人たちのアイデアなんですよ。もともとおもしろい町だけど、震災を経験したことでおもしろさがもっと加速していった。移住してからというものの、とにかくワクワクするような出会いばかりなんです」

浪江町のおもしろさの背景には、3つの要因があるのではないかと高橋さんは考えている。1つ目は浪江町に江戸時代から流れる移民のバックグラウンドです。江戸時代中期の「天明の大飢饉」により人口が大きく減少してしまった浪江町は、北陸から多くの移民を受け入れた歴史があるようです。

浪江町のメイン通り。かつては多くの飲食店が立ち並んでいた

「江戸時代からずっと浪江町に住んでいる家系でも、『自分は地元民じゃなくて移民の子孫だ』とおっしゃる方が結構いるんですよね。僕の感覚だと『江戸時代からいるのに!?』とびっくりしちゃうんですけど(笑)

僕のような町外からやってきた人に対しても『移民の後輩』くらいの接し方をしてくれます。町民と町外の人をキッパリ分けるのではなくて、グラデーションの意識があるから、新しい人や新しいことにオープンなのだと思います」

2つ目は、浪江町は商業で栄えた町だったという背景です。福島沿岸の町としては珍しく原子力発電所がないため、隣町からおいしいお酒を飲みにくる場所であり、必然的に町外から訪れる人たちを歓迎する気風があったのかもしれません。

そして、3つ目は「町民全員がマイノリティを経験したこと」です。

震災後、浪江町の人たちは家に帰れなくなり、全国に散り散りになりました。避難先では誰もが「避難者」というマイノリティの立場を経験したわけですよね。同質性を求める気質が高いと言われる島国日本では、全員がマイノリティを経験した地域ってそうそうないと思います。

つらく悲しい側面もありながら、その経験を乗り越えてきた人たちだからこそ、折れない強さ、チャレンジ精神、そしてよそ者を歓迎する文化が強いんじゃないかな」

高橋さんは、新卒で外務省へ入省、マッキンゼー・アンド・カンパニーに転職、オイシックス株式会社(当時)の執行役員への就任など、華々しい経歴の持ち主です。しかし、いまは「一人の浪江町民」そして「高橋大就」として生きていくことに、とても喜びを感じているそうです。

高橋さんが浪江町のとある文化について教えてくれました。

「浪江町の人たちって、基本下の名前で呼び合うんですよ。しかも、目上の人ですら『〇〇くん』って呼ぶんです。僕も年下の子から『大就くん』って呼ばれます。年齢問わず『くん』づけで呼び合うなんて、ジャニーズと浪江町だけなんじゃないかな(笑)

だいたい自分を名乗るときは『〇〇株式会社 〇〇部署の〇〇です』って下の名前は最後の最後ですよね。でも浪江町は僕の肩書きや経歴はすっ飛ばして、みんなが『大就くん』って呼んでくれる。一人の人としてフラットに向き合ってくれている感じがして、すごく好きな文化なんです」

「肩書きや経歴なんて、どうでもいい」。そうハッキリと口にした高橋さん。「一人の浪江町民」そして「高橋大就」として、浪江町という場所で新しい人生を謳歌している様子が存分に伝わってきました。

復興支援はどこからでもできる。それでも移住を選んだ理由

浪江町民のユニークさを笑顔で語ってくれた高橋さん。移住する前も「一般社団法人東の食の会」として何度も福島沿岸地域に足を運んでいました。かつてのインタビューで「外からでも十分復興支援はできる」と答えていた高橋さんですが、なぜ移住を決断したのでしょうか。

「バリケードで囲まれた街並みや朽ちていく空き家を目の当たりにする度に、『僕は何もできてない』とずっとモヤモヤしていたんです。目の前に大きな課題があるのに、見ぬふりをして東京に帰ることが何度も続いて。

また、この地域が震災で失った大きなものの一つに『コミュニティ』があります。要は町民同士のつながりですね。消防団や自治会の回覧板、お祭りなど、昔から当たり前にあったはずのものが震災後はすべてなくなってしまった。

放射能という大きな課題やコミュニティの再生に対して何かしたいと思っても、東京に帰る身としてはちゃんと正面から向き合えない。それならばいっそ、移住して当事者として向き合いたいと思うようになりました。

何年も前から移住の計画を立てていましたが、仕事の整理がついてやっと2021年に移住できたんです。住民票をもらったときは、仲間入りできたようでうれしかったですね」

移住した当時は、消防団も稼働できないほど住民が少なかったため、高橋さんも消防団の一員に。他にも、近隣の家々を一軒一軒訪問して住民が戻ってきたのかを確認したり、近隣町民同士のLINEグループをつくったり、一人の町民として自らの足でコミュニティづくりを進めている最中なのだとか。

「地域コミュニティをつくることは、防災とほぼ同義なんですよ。何か災害が起きたときに誰がどこに住んでいて、連絡先も全くわからない状態では、助けに行きたくても行けないわけです。コミュニティは生活の基盤となるものだと思います」

近隣の自治会の集まり (写真提供:高橋大就さん)
みんなでお酒を飲みながらワールドカップを視聴する様子(写真提供:高橋大就さん)

このように一人の町民としてコミュニティの再生に取り組む他、高橋さんは「一般社団法人NoMAラボ」を設立。「NoMAラボ」は町民主体のまちづくりと、町民の生活環境改善や課題解決につながるビジネスづくりに取り組む会社です。

昨年は、「NoMAラボ」として町民が残したい記憶や町民が描くこれからの浪江町を野外アートにする「なみえアートプロジェクト」を始動。町民自らが未来に残したいと思う風景と創りたい町の姿をヒアリングし合意のもとで、アートを制作します。描いたのは『異彩を、放て。』をミッションに知的障がいのある作家が描いたアート作品を世に届ける福祉実験ユニット「ヘラルボニー」のアーティストです。

鮮やかな屋外アートによって、町の記憶と彩りを取り戻していく。そして、どんな町にしたいのかという住民の願いを広く共有していくことを目指しています。

地元のお祭り「十日市(とおかいち)」の様子を描いた絵。この独特な画角で切り取る発想のユニークさが高橋さんのお気に入りポイントなのだそう

また、浪江町が舞台のオンラインアドベンチャーも制作中なのだそう。震災前の浪江町の記憶が残っていない子どもたちに向けて、ゲーム感覚で町の歴史や文化を学べるものとなっています。いずれも、大人も子どももワクワクしながら浪江町の記憶を継承していくプロジェクトです。

浪江町の中心の商店街だった「新町通り」の建物の壁にアートが展示されている

東北の食を広めるために、国内問わず販路を開拓してきた「東の食の会」のビジネスとは違い、「NoMAラボ」のプロジェクトは、あくまで「町民が主体であること」にこだわっているのだとか。

「震災後、福島には多くの企業がやってきて、エネルギーなどあらゆる分野で日本最先端の事例を生み出しています。『ビジネスチャンスであふれている』と感じる一方で、町外にいる人たちが浪江町の文化や伝統を新しいものに置き換えてしまっては、浪江町でなくなってしまう。

だから、特に移住してからは浪江町の歴史をできる限り調べたり、町民に話を聞きにいく機会を大切にしています。忘れてはいけないのは、浪江町民はいま浪江町に住んでいる人だけではないということです。全国に避難しているすべての人に会うのは難しくとも、今後は浪江町の外に住んでいる方々にも会いに行きたいと思っています」

「若者が挑戦しやすいまちづくり」が世の中の流れを変える

高橋さんが移住を選んだ背景には、住民が主体となったまちづくりを当事者として目指したいと思ったから。行政や大企業に頼り切るのではなく、住民が主体となりありたい町の姿をつくっていくこと。こういった「自律分散型」の考えは、浪江町に限らず日本のどの地域にとっても重要です。

そうした「自律分散型」の社会をローカルでつくるにあたって欠かせないのは、「若者が挑戦できる環境づくり」だと高橋さんは言います。

「『こんな未来をつくりたい』と若者が思ったとしても、日本全体が高齢化社会で、若者は圧倒的なマイノリティですから、その声が通らない構造になってしまっています。このままでは若者の心が折れてしまい、破壊衝動として現れ始めるのも時間の問題です。僕はそのことに本当に危機感を感じています。

若者が『声をあげてもいいんだ、自分たちの手で未来はつくれるんだ』と感じられるような環境をつくることは、いまの日本にとって急務だと思うんですよね」

若者が挑戦しやすい環境を都会ではなく、地方でつくること。挑戦しやすい環境を整えることさえできれば、自然と地方移住を選択する人が増えるはず。その結果として人の流れが変わり、地方の少子高齢化の改善、そして地方コミュニティの存続にもつながり、地域がしっかりと自立する状態が生まれていくと言います。

「本来は、自分の想いを純度高く社会に実装できることほど楽しいことって僕はないと思うんです。誰しもが幸せになりたくて生きているはずなので、『田舎のほうが楽しそう、幸せそう』というハッピーな状態をつくることができれば、地域のさまざまな課題は自然と解消されていくと思います」

起業に失敗しても死にはしない。挑戦するほど助け合えるコミュニティ

では、挑戦しやすい環境づくりとして、具体的に高橋さんがトライしてみたいこととはどんなことなのでしょうか? 聞いてみると「みんながチャレンジするほど強固なセーフティーネットができていくエコシステム」ズバリ「チャレンジ based セーフティーネット」と即興で名前をつけてくれました。

「例えばスタートアップで食べていくには、最初は難しくて当然ですから、食べていけないうちは他の会社に雇ってもらって、自分の事業が成功したら今度は自分が誰かを雇う。

スタートアップは10社に1社しか生き残れないと言いますが、逆手に取ると10人いれば1人は成功するということです。10人以上チャレンジする人がコミュニティにいれば、コミュニティのうち誰かが成功しているはずですから、たとえ自分の事業が最初はうまくいかなかったとしても、成功したところを手伝いながら自分の事業に再びチャレンジする。

そういう助け合いができれば、みんながチャレンジするほど強いセーフティーネットになっていくのではないかと」

従来の起業は「スケール or ダイ」。つまり事業を拡大するか、もしくは生き残れないか、そのどちらかしかないことが、挑戦のハードルを高めてしまっている。そんな極端な覚悟を必要とせずとも、チャレンジをしながら時に支え合い、みんながちゃんと食べていける状態を目指す。田舎暮らしは可処分所得が増えるため、むしろ都心で働くよりも豊かに暮らせる可能性さえあると教えてくれました。

「起業するからには『生き残るために拡大しなければ!』という脅迫観念のようなものがありますが、例えば、地元の人の笑顔が見たくてラーメン屋をはじめた若者が全国にチェーン店をつくる必要があるかと言えば、そんなことはないですよね。スケールすることが必ずしも本人の幸せにつながるとは限りません」

コトを起こすというと、どうしても「起業」という言葉が浮かびがちです。しかし、起業ではなくても小さなプロジェクトを起こしてみてもいいし、起業したからといって無理にスケールする必要はない。高橋さんの言葉は、「起業」という言葉に染み付いてしまった「拡大させなければならない」「失敗してはいけない」という強迫観念をゆるやかにとき解してくれます。

「浪江町、浜通り地域はすでに自分のやりたいことを実現させるために、ワクワクとした気持ちで挑戦する若者がたくさん移住してきています。その姿は、この町、ひいては日本全体の希望です。僕はこの浜通り地域を、どの地域よりも若者がチャレンジしやすい場所、ありのままの姿でいられる場所にしていきたいんです」

福島沿岸地域にはすでに多くの若者が訪れていて、特に浪江町はさまざまな最先端事例が生まれています。ビジネスとしても幅広い可能性を持つこの地域で、あえて住民として挑戦することを選んだ高橋さん。

ところどころで目に映るバリケードや人が住んでいない家屋の姿を私たちはどう受け止めるべきか。その一つの回答を高橋さんは自分の生き方として体現しているように感じました。

新しい人生を歩み出した高橋さんが目指す、住民主体の、そして思わず若者が来たくなるまちづくり。それは、高橋さんや他の誰かが一人で叶える夢ではなく、みんなでつながり、みんなが挑戦するからこそできることです。

自分一人では不安でも、誰かとなら挑戦できるかもしれない。高橋さんを含め、みんなで盛り上げていこうとする浪江町の気概は、最初の一歩を踏み出す勇気を与えてくれるはずです。

※内容は取材当時のものです。
取材・文:佐藤伶 撮影:中村幸稚 編集:増村江利子

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