飯舘村で訪問看護を始めたのは、使命感よりも「利用者さんを笑顔にしたいから」
自分の家に帰りたい。その一念で避難先から故郷へ戻った方が、医療・介護が必要になり、意に反してまた家を離れなければならないとしたら――。飯舘村で訪問看護ステーション「あがべご」を営む星野勝弥さんは、そんな「無念」に寄り添い、帰村したお年寄りに在宅での看護・介護という選択肢を提供しています。
59歳で看護師・保健師の資格を取得。2017年、6年に及ぶ避難指示が解除された直後の飯舘村へ移住し、2020年に訪問看護事業を立ち上げました。その経緯と志をうかがいました。
訪問診療・訪問看護のニーズを確信
「もしもし〇〇さん、どうしたの? ごめんね、今日は詰まってる。来てほしかった? 明日じゃだめ? じゃ明日行くよ、いつものとおり。じゃあね」
取材中、鳴り出した携帯に出た星野さんはそういって電話を切りました。相手は訪問看護ステーション「あがべご」のサービス利用者。その短い会話の様子からも、星野さんが村の人々からとても頼りにされていることがうかがえます。「あがべご」では現在、星野さんを含む5人の看護師が、飯舘村に暮らす高齢住民の暮らしをサポートしています。仕事の範囲は日常生活での看護・介護、服薬管理、心のケア、そしてターミナル(終末期)ケアまで幅広く、ときには「雨どいを直してくれないか、なんて相談されることもある(笑)」とか。
星野さんが飯舘村に移住したのは2017年秋のこと。最初は地域包括支援センターの保健師となりました。避難指示が解除されたばかりの村では、ほどなく帰村者の実生活と健康に関する全戸調査が行われることになり、星野さんも20ある行政区のうち約半分を担当。そこで村民の生の声を聞き、訪問診療・訪問看護のニーズを確信したといいます。
「村の診療所は再開していましたが、外来診療は週2日午前のみで常勤医はゼロ。また、施設はあっても人手がないためデイサービスやショートステイは難しい状態でした。人口比だけで見れば医療や介護は“足りている”ことになるのかもしれませんが、地域の実態とはまったく合っていません。それなら自分で訪問看護事業を立ち上げようと考えたのです」
周囲からは「やっても誰も来ないよ、採算とれないよ」と言われ、実際に開業当初は利用者獲得に苦労したそうです。それでも徐々に認知されるようになり、2022年11月現在、定期的に訪問する先は20人以上に。さらに星野さんは、村になんとか常勤医をと考え、かつて看護実習で訪問診療に同行を許され知り合った本田先生に相談し、村に着任して下さるよう懇願し、いいたてクリニック常勤医着任を実現させたのでした。
■本田徹さんの記事
多くの人と関係を紡ぎながら飯舘村の地域医療を守っていく
他者の苦痛を自分の苦痛として引き受ける
飯舘村のために力を尽くしている星野さんですが、もともと村とは縁もゆかりもなし。生まれも育ちも勤め先もずっと東京でした。それがなぜ今ここに? その疑問を解く「根っこ」の部分は、大学時代の経験にあったといいます。両親ともにキリスト教の牧師という家庭に生まれ育ち、東京大学に進んで、言語学を学んで海外宣教師を志すも、信仰に挫折。学問にも疑問を持つようになったそうです。卒業までにかかった7年のうち5年はほとんど大学に行かなかったとか。
「その5年間が今の僕の土台を作っています。何をしていたかというと日雇い労働者。山谷(さんや)のドヤ街に寝泊まりし、他にもいろいろなところで働きました。結局、『人の土台は言語ではなく身体であり、身体の苦痛である。他人の苦痛を自分の苦痛として引き受け、精一杯生きていくしかない』というのが20代の僕の発見でした」
大学卒業後、星野さんはまず一介の常勤労働者となるべく都内の私立高校に就職し、25年間教壇に立ちます。いよいよ「他者の苦痛を引き受けること」を実践するため、教職を辞したのは50歳のとき。向かったのは群馬県でした。そこで2年間、外国人労働者の健康問題に関わった後、本格的に医療の道を目指します。
「最初医学部を目指したのですが、やはり50代のハンデは大きく、国公立医学部では門前払いでした。それで看護師の道を選び直して都立大の看護学科に入学。この時はまじめに勉強して4年で卒業しました」
還暦目前に看護師デビューを果たした星野さんは、都内の病院に就職。特に精神病理学に関心があったことから精神訪問看護にも5年間携わりました。これは統合失調症やうつ病などで精神科にかかって退院した方の家庭を訪問し、服薬支援など生活のケアを行う仕事だそうです。
「ものすごく楽しかったです。それまでの仕事でいちばん自分に合っていました。そもそも訪問看護という形態があることを看護学科で初めて知って以来、ぜひそれがやりたかったんです。だって病院の中で患者を待っているのではなく、元気な人間のほうが出向くのが当たり前じゃないですか。それで僕は、いずれは海外から出稼ぎに来ている外国人労働者の集住地区で訪問看護をやる考えでした。東日本大震災が起きるまでは」
福島に来たのは使命感ではなく当然の帰結
震災が起きたとき、星野さんはまだ看護学科に在籍中でした。原発事故の一報を聞いて星野さんの脳裏によみがえったのは、20代初めにたまたま東京電力社員から聞いた、「福島で作った電気は、全部首都圏へ送られている」という言葉だったといいます。
「その人は東電社員でありながら原発の危険性も指摘し、原発で何かあったら大変なことになるとも話していました。衝撃的でした。そして30数年後にその危険が現実になってしまったんです。僕自身も原発には懐疑的だったものの、一方では福島から来る電力を当然のように消費してきました。だから、この災厄を被った場所へ行って自分にできることをやる、それ以外に選択肢はないと思ったんです。義務感とか使命感ではなく僕にとっては当然の結論でした」
とはいえ、看護師になりたての2012年3月当時は、まだ避難区域には入れない状態。なにより臨床トレーニングが必要と考えた星野さんは、まずは都内の病院に就職したのでした。そして、いよいよ福島へというときに飯舘村を選んだ理由については、「原発から離れていて、受けてきた恩恵もいちばん少ない地域なのに(事故後の風向きの影響で放射能汚染がひどく)全村避難を強いられた。そうやって故郷を追われた村の人に思いを馳せることは、僕にとって自然なことでした」と振り返ります。
さらに、「過疎の村に戻ってくる人はおそらく大多数が高齢者。そこでは訪問診療・訪問看護こそいちばん役に立つ医療業態のはずだ」と考えたのも、飯舘村を選んだ理由でした。
村で最期を迎える人たちをどう看取るか
星野さんは飯舘村に来てから、自身が関わってきた人を30人くらい看取っているそうです。
「そのなかに、ご家庭に問題があってひとり暮らしをしていたおじいさんがいました。入院しなさいと言われていたのを無視して帰村した方で、ちょっとクセがあってね。最初訪問したときからもう長くないかもしれない状態で、毎朝通いましたが4日目にとうとう亡くなりました。後日、親族の方がおじいさんが書いたという詩を見せてくれて、読んだら詩ではなくて『遠くへ行きたい』の歌詞だったんです。『愛する人と巡り逢いたい』ってどんな思いでノートに書き留めたのか・・・。これからもたくさんの人がこの村で歳をとり、それぞれの人生をまっとうされていくでしょう。その最期をどう過ごし、どう看取るのか。あらためて自分がこの村にいることの意味を考えさせられました」
飯舘村に限らず高齢化の進む地域では、ターミナルケアや看取りのニーズは「本当に大きくなりつつある」と星野さん。また今後は、看護師が遠隔地にいる医師とオンラインで連絡を取り合うことで死亡診断をサポートする資格取得も予定しているそうです(※)。
※死亡診断ができるのは医師だけのため、近くに医師がいない場所で危篤になったとき無理にでも病院に救急搬送するケースがあるなどの課題に対処する目的で、2017年に厚労省が「情報通信機器(ICT)を利用した死亡診断等ガイドライン」を定め、一定の研修を受けた看護師による立会いでの遠隔診断が可能となった。
一方で、年齢に関係なく人間の持つ回復力を目の当たりにすることもあるといいます。
「床ずれが悪化してしまった101歳のおばあちゃんがいてね。本田先生や訪問入浴を担当する看護師さんなど、いろいろな人と一緒に私も毎日行きましたが、1カ月半でびっくりするくらいきれいに治ったんです。みんな驚きました。まさにチームで連携して成功した例です」
この事例に限らず、医師と看護師がこれほど近い距離で情報交換できる地域はほかにないと星野さんは強調します。
「大病院だと看護師は医者の判断した結果を受け取るだけの場合が多いですが、ここでは一緒に利用者さんのために何ができるかいろいろな可能性を考えることができるので、ものすごく勉強になります」
身体から出てくる言葉や行為こそ大切
この数年で村の医療・介護サービスの選択肢は増えたものの、星野さんによればまだまだ人材は足りない状態。「あがべご」でも看護師を募集中とのことです。そこで、医療者のキャリアに飯舘村で働くことがどう役立つかと質問すると、「キャリア? 僕はそういう価値観ではないからなあ(笑)」。筆者はまもなく、少なくとも星野さんに関する限り、その問い自体が間違っていることに気づかされました。
「こうしたらこんないいことがありますよって、あらかじめプログラムされているのは、おもしろくないでしょう? 何もないところに来たほうが絶対におもしろい。そこに生身の人間がいる限りね」
実際、飯舘村の魅力は、こんな田舎なのにおもしろい人が多いことだと笑います。
「みんな心が広く、人に対して閉じていません。びっくりしました。若い移住者のみなさんもみんな個性的で、交流を通じて思いもよらない発見があります」
「僕は大学時代の数年を山谷で過ごして初めて、世の中とは、社会とは、労働とはこういうことなのかと知りました。それは本を読んでいるだけでは決してわからなかったことです。最近は、人生の基盤が借り物ばかりの人が多いんじゃないかな。自分の身体で経験したもの、身体から出てくる言葉や行為、それを見つけないと人生はつまらないですよ」
ちなみに、訪問看護ステーション名の「あがべご」は、福島の民芸品「赤べこ」と、「見返りを期待しない愛」を意味するギリシャ語の「アガペー」を合わせたものだとか。
「ここに来るのは滅私奉公でも英雄になりたいからでもありません。だって、みんな一緒に生きているんだから目の前で困っている人を手伝うのは当然でしょ」
家の周囲にタラノキを植え、「来春こそタラの芽パーティをやりたい」という星野さん。そこに集う村民や医療関係者たちの満面の笑顔こそ、星野さんにとっての「見返り」なのでしょう。
星野 勝弥(ほしの かつや) さん
東京都出身。東京大学で言語学を学ぶ。卒業後は国語教師として25年間都内の高校に勤務。40代から医療の道を志し、2008年、55歳で首都大学東京(現・東京都立大学)の看護学科に入学。還暦目前で都内の病院に看護師として入職。精神訪問看護の分野で経験を重ねる。東日本大震災以来気にかかっていた飯舘村での医療に関わりたいと、2017年に移住を決意。村の地域包括支援センターで保健師として2年余り勤務したのち、2020年8月、訪問看護ステーションあがべごを開設。
※内容は取材当時のものです。
取材・文:中川 雅美 撮影:中村 幸稚