多くの人と関係を紡ぎながら飯舘村の地域医療を守っていく
「こちらの人間になりきって、ここに骨を埋める覚悟です」
穏やかな笑顔でそう語るのは、「いいたてクリニック」常勤医の本田徹さんです。半世紀にわたり医師として国内外で幅広く活動してきた本田さんは、職業人生の最後の地として、居住人口約1,500人・高齢化率6割超の飯舘村を選びました。その理由はどこにあったのか。そして、この村で医療者として活動することの意義とは。秋が深まる阿武隈高地山間の村に本田さんを訪ねました。
常勤医として訪問診療に注力
本田さんは2022年4月、飯舘村唯一の公設民営診療所である「いいたてクリニック」に着任しました。同クリニック初の常勤医として、週2日の外来診療日のうち1日を担当し、1日30人ほどの患者さんを診察。外来以外の日は、本田さんが力を入れる訪問診療にあたっています。
「たとえば、酸素吸入が必要な方、医学的理由でご飯が食べられない方などは、もし在宅医療が提供できなければ入院するしかありません。でも、訪問看護や訪問入浴など、さまざまなサービスを担う人たちと協力することで、患者さんも住み慣れた自宅で過ごすことが可能になっています」
訪問診療は、患者さんが集中している東京なら、専属ドライバーや看護師も同行して1日30件ほど訪問することができますが、住宅がまばらに建つ飯舘村では、本田さんひとりで1日多くても10件が限界とのこと。本田さんは「1日の運転距離が100kmになってしまうこともある」と笑いますが、身体への負担は少なくないはずです。それでも患者さん宅への訪問をとても大事に考えている本田さんは、心に残ったというひとつのエピソードを紹介してくれました。村に住む70代の女性のお話です。
「その方はご主人を亡くされてひとり暮らし。持病の痛みもあり心身がつらくて、もう死にたいとおっしゃっていました。そこへ私が毎週訪問するようになってお話を聞いているうちに、気持ちが少しずつ前向きになられたのです。もちろん診察もしますが、基本的にその方の状況は変わっていません。それでも、若いころ苦労された話やご本人の誇りにつながる話を丁寧にお聞きして、『それはすごいですね』、『がんばりましたね』と認めてあげることで心が晴れ、生きなければという気持ちになっていただくことができました」
国内外でアウトリーチ活動を展開
地域住民に寄り添う医療を実践している本田さんは、1973年に北海道大学医学部を卒業後、北海道、東京、長野と国内の複数の病院で勤務。長年、訪問診療に携わってきました。プライマリ・ヘルスケア※1の先進地といわれる長野県佐久市の佐久総合病院に勤務した時には、本田さんが恩師と呼ぶ故・若月俊一院長の薫陶を受けます。
※1 プライマリ・ヘルスケアとは、すべての人にとって健康を基本的な人権として認め、それを達成する過程において、住民の主体的な参加や自己決定権を保障する理念や方法論のこと。1978年にカザフスタンのアルマ・アタにおいて開催された、世界保健機関(WHO)と国際連合児童基金(UNICEF)との合同会議での宣言文、アルマ・アタ宣言によって最初に定義された。
「若月先生からは、『病院の医者は病院の中で患者さんが来るのを待っているだけではダメだ、積極的に地域に出掛けていって住民の生活を知り、病気の背後にある問題についてもアプローチしなさい』と教えられました。これは途上国に行っても、日本の地域でも大切にするべき、アウトリーチ活動※2の考え方です」
※2 医療・福祉分野におけるアウトリーチ活動とは、支援が必要であるにもかかわらず届いていない人に対し、支援側が積極的に働きかけて支援を届けること。
本田さんは30歳のときに青年海外協力隊(現・JICA海外協力隊)としてチュニジアに派遣され、「医師としての根っこが形成された」と振り返ります。そして、1983年から国際協力NGOの先駆けともいえる「日本国際ボランティアセンター(JVC)」内に設立された海外援助活動医療部会に参加。1985年のエチオピアでの干ばつ・飢餓の医療救援、1988年のカンボジア国内での母子保健活動などを経て、海外援助活動医療部会はNPO法人「シェア=国際保健協力市民の会」としてJVCから独立することになります。その後、1994年のルワンダ難民、1999年からの東ティモール医療救援、1995年の阪神淡路大震災時の医療救援など、国内外で数多くの医療支援活動に従事。また、東京の山谷(さんや)地区(日雇い労働者街)での路上生活者への医療活動や、在日外国人の医療支援にも長年関わってきました。
本田さんの最新の著書『世界の医療の現場から プライマリ・ヘルス・ケアとSDGsの社会を』(連合出版)の一節には、その考えが端的に表されています。
「『医療の最前線』とは、必ずしも技術的なフロンティアだけを意味するものではありません。(中略)基本的な医療サービスの恩恵からさえ完全に見放されたり、遠ざけられたりを余儀なくされている人々に対して、医療を届けるという意味のフロンティアも、立派に医療の最前線を成しています」
余生は福島のために
その本田さんが、なぜ飯舘村にやってきたのでしょうか。
2011年の東日本大震災の際、本田さんは宮城県気仙沼市で救援活動に従事しました。しかし、心の中で「原子力災害に見舞われた福島のことがずっと気になっていた」といいます。そこで、都内の病院勤務のかたわら自ら機会を探し、2012年から週1日、いわき市の福島労災病院で勤務を開始。避難者だけでなく、原発関係者や除染作業員らの健康サポートを通して、被災地の現状を目の当たりにしました。それでも当時は移住までは考えていなかったそうです。
転機が起きたのは、いわき市に通い始めて2年ほどたったころ。新聞記事で楢葉町の宝鏡寺住職、早川篤雄さんの存在を知ったことでした。記事を読んで大いに啓発された本田さんは、ぜひ会いたいと楢葉町に出掛けます。
「昔から原発事故の危険性を察知して活動されていた方で、そのお人柄とお考えに深く共鳴し、ぜひこの方のそばで働きたいと思いました。当時私は70歳に近づいていました。私で役に立つのなら、余生は福島のためにと考えたのです」
2019年2月、本田さんは長年勤めた東京の病院を辞し、広野町の高野病院の勤務医となります。外来・病棟を担当するほか、もちろん訪問診療にも積極的に取り組みました。しかし新型コロナウイルス感染症の流行とともに、地域へ出ていく仕事が大きく制限されるようになり、悶々とする日々もあったといいます。そして2年半が過ぎたころ、飯舘村で訪問看護ステーションを立ち上げていた星野勝弥さんに誘われ、初めて村を訪れたのが再び転機に。常勤医のいない村にぜひ来てほしいという星野さんの思いに触れ、ここで自分のスキルを生かして訪問診療に取り組みたいと移住を決意したのでした。
「飯舘村は広いので、広野町よりさらに訪問は大変ですが、やりがいも大きいですよ。ご高齢のひとり暮らしや二人暮らし、車を運転しなくなって孤立している方も多く、そういう方々の医療ニーズはかなり高いのです」
■星野勝弥さんの記事
飯舘村で訪問看護を始めたのは、使命感よりも「利用者さんを笑顔にしたいから」
技術だけで仕事は成り立たない
そのような状況下、飯舘村をはじめ福島12市町村全体では医療・介護体制のさらなる充実が求められています。村唯一の診療所「いいたてクリニック」は内科と外科のみ。本田さんは、「おそらくそれで地域の医療ニーズの8割程度はカバーできるでしょうが、ほかにも一般的に眼科、歯科などの需要は高い」といいます。現状では、そうした診療科を受診するには隣町まで行かないといけません。
また、本田さんは医師や看護師以上にいま求められているのが介護人材ではないか、といいます。
「たとえば介護施設にベッドが100床あっても人員が確保できなければ全床は活用できません。訪問介護も東京なら24時間対応が普通ですが、常勤ヘルパーが足りなければ夜間・休日は不可能。週末に訪問できず、月曜日にヘルパーが行ったら倒れていた、というケースも実際に起きています」
どうやってこの地域に必要な人材を呼び込むか。本田さんは「都市部の医療関係者に興味を持ってもらえるよう、情報発信を地道に続けるしかない」と言い、加えて、「住宅提供などのインセンティブも必要ではないか」と指摘します。そのうえで、「骨を埋める覚悟とは言わずとも、たとえ5年間でもここに来て働けば、いろいろな意味で医療者が学べることがある」と強調しました。
「家族関係も性格的なものも含めて、患者さんの生活全般の状況を理解してあげることで、医療のアプローチは変わってきます。また、医者だけでは対応が難しいことはたくさんあり、保健師さんや障害者福祉関係の方々などとも協力することが欠かせません。医者でも看護師でも、技術だけで仕事が成り立つわけではないのです。いろいろな人との人間関係をちゃんとつくれるかどうかがとても重要。こういう地域でがんばっている人たちと一緒に仕事をすることで見えてくるもの、身につくスキルがあるはずです」
それを一言で表せば「ヒューマンスキル」ということになるでしょうか。前述の「住民の生活を知り、病気の背後にある問題についてもアプローチする」というアウトリーチの精神とも重なります。さらに本田さんは、医療者が他の職業の人に触れることの大切さも説きました。
「私は青年海外協力隊でチュニジアに行ったとき、いろいろな職業の人たちと『同じ釜の飯を食う』経験をして視野が大きく広がり、そのことが後の人生にとても役立ちました。医者も看護師も自分たちのサークルに閉じこもらず、外に出て行ってさまざまな人と接し、敬意を持ってその人たちから学ぶことが大切。そうした知識と経験が、たとえば患者さんに治療方針を理解してもらうときにも生きてきます」
薬を処方するより「おいしい野菜をつくってね」と言って力づけたい
本田さんは、予防や健康増進の分野でも草の根の活動をしています。地元NPO「ふくしま再生の会」が開く月1回の集いの健康相談コーナーに、訪問看護ステーションの職員や首都圏など遠方からかけつけてくれる多くの医療ボランティアの人たちと一緒に参加。その集いでは無料のフットマッサージや整体なども実施しているそうで、まさにさまざまな人材が一丸となって地域の健康・医療ケアに取り組んでいることがうかがえます。
「こちらには認知症のお年寄りもたくさんいます。しかし都会と違い、好きな畑仕事などずっとやってきたことを続けられるので、精神的なバランスがとりやすい面はあるでしょう。薬を処方するより、『おいしい野菜を作ってね』と言ってあげて同じ効果があるならその方がいい。そしてこちらもそのお野菜をいただいてしまったりね(笑)」
最近では、オンライン診療や画像診断など医療のデジタル化推進も議論されています。そうした技術の有用性は認めつつも、「決してヒューマンコンタクト(対面診療)を代替するものではない」という本田さんの言葉には、だれもが大きくうなずけるのではないでしょうか。顔の見えるコミュニティで暮らし、さまざまな人たちと関係を紡ぎながら地域医療を守っていく。その静かな覚悟に触れて背筋の伸びる取材でした。
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本田 徹(ほんだ とおる) さん
1973年北海道大学医学部卒業。1977年、青年海外協力隊医師としてチュニジアに派遣。長野県佐久総合病院、東京都葛飾区堀切中央病院、台東区浅草病院などに勤務。2012年より福島県いわき市の福島労災病院で週1回の外来診療に従事。2019年2月より福島県広野町の高野病院に勤務。2022年4月に飯舘村唯一の診療所「いいたてクリニック」の常勤医に就任。特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会代表理事。第16回若月賞(2007年)※3、毎日社会福祉顕彰(2012年)などを受賞。自著に『文明の十字路から 一医師のアラブ=チュニジア記』(連合出版)、『人は必ず老いる その時誰がケアするのか』(角川学芸出版)、『世界の医療の現場から プライマリ・ヘルス・ケアとSDGsの社会を』(連合出版)など。
※3 若月賞:佐久総合病院が、若月俊一名誉総長(故人)の業績を記念して1992年に創設。全国の保健医療分野で「草の根」的に活動し、地域に貢献した人を顕彰する。
※所属や内容は取材当時のものです。
取材・文:中川雅美 撮影:中村幸稚