全国に誇るトップブランド・請戸の魚を届け続ける信頼の「いちます」印。浪江町・柴栄水産

福島県で水揚げされる魚は「常磐もの」と呼ばれ、その品質の高さから市場で高値が付くことも珍しくありません。なかでも、浪江町の請戸(うけど)漁港から届く魚は、「請戸もの」として東京の市場でもトップブランドとしてひときわ高く取引されてきました。
請戸の魚をそうした人気ブランドに押し上げるのに貢献した水産会社が、浪江町の有限会社柴栄水産(しばえいすいさん)です。市場では「いちます」の屋号で知られています。創業から約130年。4代目で代表取締役の柴強(しば つよし)さんに、請戸の魚とともに歩んできた柴栄水産の歴史とご自身の歩み、そして故郷・浪江町への想いを聞きました。
※アイキャッチ画像は柴栄水産提供
地元での振り売りから築地のトップブランドに
柴栄水産の創業は1897(明治30)年。創業者は柴さんの曾祖父です。請戸漁港に揚がった魚を仕入れて町内を振り売りする(天秤棒を振り担いで商品を売り歩く)ことから、その歴史は始まりました。祖父の代には「柴栄商店」として店を構え、地元の人たちにより安定的に魚を届ける一方、東京・築地市場(現:豊洲市場)への出荷を始めるなど、着実に事業を広げていきました。
しかし、「家族の暮らしは決して楽ではなかったはず」と柴さん。なかでも、3代目で現在会長である父・孝一(こういち)さんは一番苦労したのではないかと言います。
「父は、家計が苦しかったために学校には行かず、16歳で地元を離れ築地市場で修行を積み、21歳の時に地元に戻り稼業を継ぎました。そうして少しずつ販路を広げて商売の基盤を固め、請戸の魚を築地のトップブランドにまで押し上げました。店を柴栄水産として法人化したのも父です。頑固で仕事には誰よりも厳しく、意見がぶつかることもたくさんありますが、魚の目利きは超一流。目利きで父に勝る人に出会ったことはありません」

ただ、この仕事に就く前の柴さんは、孝一さんの凄さを知る由もありませんでした。少年時代は孝一さんの影響で野球に打ち込み、甲子園出場経験もある地域の強豪、福島県立双葉高校(2017年より休校中)に進学。70人近い野球部員がいるなかでレギュラーの座を勝ち取り活躍します。父からは「高校を卒業したら築地で修業するように」と強く言われていましたが、現役合格と卒業後の「築地で修行」を条件に大学進学を認めてもらい上京。卒業するとすぐ、約束通りに、しかし「仕方なく」、築地市場に修業に入りました。その修業での経験が、柴さんの「仕方なく」の意識を大きく変えることになります。
『兄ちゃん、いちますさんの息子さんか?』――全国一の魚を扱うプレッシャーとの戦い
少年時代に家業を手伝った記憶はほとんどないという柴さん。「最初は、魚を見てもそれが何の魚かまったく分かりませんでした。魚屋の息子なのに切り身になった魚しか見たことがなかったので」と笑います。
ところが、「いちます」と書かれたジャンパーを着て築地に足を踏み入れると、市場で商品を仕入れ小売店や飲食店に販売する仲買人が次々と自分のもとに集まってきました。
「『兄ちゃん、いちますさんの息子さんか?』と言いながら、たくさんの人が挨拶してくれたんです。『いちますさんの魚は最高なんだぞ。しっかり勉強して立派に家を継げよ』と、顔を覚えきれないほど多くの方から声をかけていただきました」

競り場に足を運ぶと、さらに驚きの光景が柴さんの目の前に広がっていました。
「うちの魚が一番目立つところに並んでいて、その日一番の魚として最初に競りにかけられる“トップ引き”で扱われていたんです。築地という全国一の市場で、父が目利きしたヒラメやカレイ、スズキが一番いいところに高級魚として並んでいる。これには心から驚きました。本当は誇りを感じるべきだったんでしょうが、築地での日々は、これほど偉大な魚を自分が扱っていけるだろうかという大きなプレッシャーとの戦いでした」
単に仕事として会社を継ぐのではなく、請戸の水産会社に生まれた自分の生きる道はこれなのだと意識を変えた柴さん。孝一さんの指導も受けながら目利きの技を磨きました。
どこにも負けない魚を扱っている誇り。震災と全町避難を経て9年越しで事業を再開
柴さんはその後、父譲りの目利きのセンスを発揮。いちますの名に恥じない高品質の魚を市場に卸し続けます。孝一さんにも少しずつその努力が認められ、2011年4月に孝一さんから社長の座を譲り受けることが決まっていました。
ところが、社長就任目前の3月11日、東日本大震災が発生します。社屋には津波が押し寄せ全壊。さらに原発事故によって浪江町は全町避難となり、全国に名を轟かせた請戸の漁業はその日を境に完全に時が止まりました。
「ここで漁業を再開することなど絶対に無理だと思っていました。いつまた請戸に戻れるか分からないし、そもそも漁師がいないんですから。福島県産というだけで敬遠される風評被害もありましたしね。もし再開できるときが来たとしても、震災を経験した人たちが1人もいなくなるような、100年ぐらい先の話ではないかと思っていました」
しかしその後、2017年3月31日に請戸地区を含む浪江町の大部分の避難指示が解除。すると、かつての請戸の漁業関係者たちが少しずつ戻り始め、港の再開に動き始めます。施設の復旧を進めながら同年のうちに港の使用を再開し、2019年には新しい荷さばき施設が完成。柴さんもそれに合わせて請戸への帰還を決意し、港から内陸500mの場所に新しい社屋を建設します。2020年4月には9年ぶりに請戸漁港での競りが再開し、柴栄水産もようやく新しい歴史を歩み始めました。

事業再開までに要した丸9年の長い歳月。それでも会社を畳む選択をしなかった理由を柴さんはこう語ります。
「漁師のなかには避難先で漁を続ける人もいましたが、その人たちもいつかはここに戻ってくるだろうと思っていました。どこにも負けない魚を扱っているという誇りが請戸の漁師にはあったからです。でも、どんなに漁師が魚を獲っても、その魚を扱う業者がいなかったら、この町の漁業は元には戻りません。いちますとして長く信頼をいただいてきた会社として、そのときに備えておかなければいけないと考えていました」
請戸の魚をアピールし続ければ、おのずと浪江町の復興につながる

事業を再開したとはいえ、震災前とまったく同じ環境が戻ってきたわけではありません。漁師の数は震災前の3分の1、100隻以上あった漁船は30隻ほどに減り、水揚げの日もまだ月に12日程度しかありません。それでも柴さんは、請戸で商売を続けることに迷いはないと言います。その根底にあるのは、故郷である請戸、そして浪江町の復興に向けた強い想いです。
「私は、魚屋という仕事を、単に魚を売る仕事とは考えていません。魚を獲る人がいて、それを市場に届ける人がいて、料理する人がいて、その先に食べる人がいる。そこまで届いて初めて、地域の産業として漁業が成り立つ。そのすべてをつなげるのが当社の仕事だと考えていますし、仕事を通じて請戸の魚の価値をアピールし続ければ、それがおのずと浪江町の復興につながると思っているんです」
社屋の1階には、柴さんが目利きした自慢の魚を手軽に購入できる直売所があります。プロも太鼓判を押すおいしい魚ばかりが並ぶ「地元の魚屋」です。都会の人にとっては高価なイメージのある魚も、ここなら新鮮かつ手頃な値段で手に入ります。

浪江町への移住者は増え続けており、今後はそのなかから請戸で水産業に従事したいと考える方も出てくるかもしれません。そうなれば流通量も増え、浪江町全体がより活気づくのではと柴さんは期待を口にします。
「浪江町は水産物が豊富なだけではなく、山もあって農産物も豊富ですし、春には桜が咲き競う請戸川や秋の紅葉が美しい高瀬川など、川も美しい。その3つが揃ってこそ浪江町であって、どれか一つが欠けても浪江町らしさは損なわれてしまいます。そんな浪江町らしさを守るためにも、この仕事を長く守り続けなければいけないと思っています」
今後は海外への輸出も含めて事業の可能性を広げたいと意欲を語る柴さん。会社の新たな歴史はまだ幕が開いたばかりです。創業150年、200年に向け、柴さんはこれからも請戸の魚を全国に届け続けます。
■有限会社柴栄水産
所在地:〒979-1522 福島県双葉郡浪江町大字請戸字古川15番地7
直売所営業時間:10:00〜16:00(日曜・祝日定休※カレンダーにより変更になる場合があります)
TEL:0240-23-5411
HP:https://www.shibaei.co.jp/index.html
※所属や内容は取材当時のものです。
取材・文:髙橋晃浩