フリーの映像作家として目指す作品づくりを川俣町で実現
- 移住したきっかけ
映像作家として目指す活動ができる地域を探し、地域おこし協力隊の募集を知った - フリーランスとしての仕事内容
川俣町のPR映像シリーズ制作を受託するほか、3割ほどは東京の仕事も - これからの目標
川俣に拠点を置きつつ、東北地方へ仕事の範囲を広げていきたい
東京で生まれ育った佐原孝兵さんは、未経験から映像の世界に飛び込み、様々な映像の制作に携わってきました。やがてドキュメンタリー制作に興味を持ち、撮影から編集まで一人で作品を仕上げるビデオグラファーとして独立。フリーランスとして試行錯誤を始めます。その9ヵ月後、佐原さんは川俣町の地域おこし協力隊の入隊式に出席していました。この間どんな経緯や気持ちの変化があったのでしょうか。
やりたいことができる環境を探して地方へ
――現在、地域おこし協力隊員かつフリーの映像作家ということですが、どんな仕事をされていますか?
川俣町の地域おこし協力隊には、雇用型、企業研修型、起業・個人事業主型の3タイプがあり、僕は起業・個人事業主型の協力隊員として2022年6月から町内で活動しています(入隊は同年4月)。町との雇用関係はなく、業務委託契約を結ぶ形です。業務内容は、町内の事業者や町民の日常に密着したドキュメンタリー映像をシリーズで制作し、定期的に動画サイトで配信するというもの。「帰れる場所はひとつじゃない」というテーマで、関係人口の増加や移住・Uターンのきっかけづくりになればと考えて作っています。そのほか、以前から付き合いのある東京のクライアントの仕事も続けていて、平均すると3割くらいの時間を東京で過ごしています。同じ場所でじっとしているのが苦手な性格なので、モチベーション維持のためにも、このくらいのバランスがちょうどいい感じです。
――映像の仕事で独立するまでの経緯を教えてください。
社会に出てインフラ関係の会社に5年ほど勤めた後、自分の好きな音楽に関係する仕事がしたいと思い、ミュージックビデオの制作を志しました。といっても当時はカメラを触った経験すらなし。履歴書を送っても軒並み断られるなか、やる気を買って受け入れてくれた会社が1社だけあって、そこでゼロから映像制作を学びました。企業CMやPR映像を中心に、ドラマやドキュメンタリーの制作にも携わるうち、音楽よりも映像そのもの、特にドキュメンタリー制作の面白さに魅了されていったんです。映像業界に入ったときから、いずれは指名で仕事が来るようなプロになりたいと思っていたので、2021年7月、ちょうど会社の体制に変更があったタイミングで退職。自分一人で演出・撮影から編集まで手掛けるビデオグラファーとして独立しました。
――川俣町で活動を始める約1年前ですね。その間、何があったのでしょう?
独立後、それまで知り合った映像業界の人たちを通じて仕事はいただけるようになりました。でも、ほとんどが現場のアシスタント業務ですし、分業化されていて作品作りの一部にしか携われない。一人で仕事を完結するという僕の理想からは程遠いものでした。折しもコロナ禍で在宅ワークが一般的になり、映像編集はどこでもできることがわかった。それなら、なにも東京にいなくてもいいんじゃないか。それに東京は競争が激しく、映像の現場はとても過酷です。そんな世界で消耗するより、相対的に同業者が少ない地方に行って、僕の作る映像で何か人の役に立つことができたら、そのほうが楽しいんじゃないか。そう考えて地方の仕事を探したら、たまたま川俣町地域おこし協力隊の募集を知ったというわけです。
縁もゆかりもなかった川俣町との出会い
――もともと地域おこし協力隊に興味があったのですか?
いえ、そういう制度があること自体知らなかったし、場所も決めてませんでした。最初は「地方、映像、求人」みたいなキーワードで探していたら偶然、川俣町の絹織物工場の地域おこし協力隊募集ページが出てきたんです。町の名前を聞くのも初めてでしたが、内容を読むうち、こうした地方のすばらしい伝統産業のPRにもっと映像の力を生かせるのではないかと思いました。それで、求人への応募ではなく、「映像制作のご提案ができます」という内容のメールを送ったところ、すぐ返信があって起業・個人事業主型という協力隊制度もあることを紹介されました。
まずは行ってみようと、「川俣町おためし地域おこし協力隊ツアー」に参加したのが2022年1月のことです。初訪問の印象は「静けさ」でした。ちょうど雪が降っていて、その雪が地面に落ちる音さえ聞こえてきそうなほどの静寂。まちなかでも人がほとんど歩いていません。都会育ちで田舎暮らしへの憧れがあった僕にとって、この静けさと自然豊かな景色は魅力でした。一方で町の中心部にはスーパーもコンビニもあり、県庁所在地である福島市内へのアクセスも悪くない。ここなら生活できそうだと思って応募することにしました。ほかの地方にも問い合わせはしましたけど、川俣町の第一印象がとても良かったので迷いはなかったですね。
――どのような選考プロセスでしたか?
起業・個人事業主型の場合は、川俣町で自分が取り組みたいプロジェクトを企画して提案します。そこで僕が考えたのが、冒頭でお話しした「帰れる場所はひとつじゃない」という映像シリーズ制作でした。お試しツアーに参加したとき、川俣には原発事故で長い間避難が続いた地区があることや、進学や就職で町外・県外へ出て行く若者が多いこと、などを知りました。いろんな事情で川俣を離れた人たちが遠い場所で故郷を思っている。そんな人たちが懐かしいと思えるような、同時に川俣を知らない人も町に興味を持ってくれたりするような映像を作れないか、と考えたのです。また、そのツアーで川俣シルクや川俣シャモ、トルコギキョウなどの生産者を訪問し、みなさんが生き生きと働く姿を見て、「この人たちを撮影したい」と思ったのも理由のひとつでした。
ちなみに、この起業・個人事業主型地域おこし協力隊の魅力は、年間の業務委託契約で収入が確保されることに加え、別に活動費が支給されることです。たとえば新しい機材が必要になったとき、レンタルすればその費用を請求できる。これはフリーランスにとってとても助かります。住まいは自分で探しましたが、住宅手当(上限あり)が支給されるのもありがたいですね。さらに、仕事の環境を整えるのに福島県12市町村移住支援金も活用させてもらいました。
協力隊卒業後を見据え、東北での仕事を広げたい
――着任から1年半、振り返っていかがですか?
「帰れる場所はひとつじゃない」シリーズはこれまで9本を公開しています。また昨年(2022年)は、「KFB・東邦銀行ふくしまふるさとCM大賞」で、僕の制作した川俣町のCMが福島県知事賞を受賞しました。こうした映像がすぐに移住者や関係人口の増加につながるわけではないですが、少しは川俣に興味のある人には届いているのかなという実感はあります。自分が作りたかったものを作れているし、これらの作品が僕個人への新規の問合せにつながることもあり、フリーランスの仕事を広げるうえでの効果も感じています。
暮らしの面で言うと、ここでは会う人がみんな、僕を協力隊員だと認識してくれていることがすごく嬉しいです。そういう環境を息苦しいと思う人もいるかもしれないけど、だからといってプライベートが守られないわけではない。僕にとってはちょうどいい距離感なんです。
――今後はどのような展開を考えていますか?
動画シリーズについては、事業者さんの紹介だけでなく、町民の方のおはようからおやすみまでの一日を追うドキュメンタリーに取り組んでいるところです。この町でどんな時間を過ごすことができるのか、映像で追体験してもらえるようなものを作りたい。ただ、これにはとても時間がかかってしまっていて……。実は動画シリーズは当初、毎月1本公開するはずだったのが予定通りにできていません。がんばって遅れを挽回しないといけないです。
協力隊員としての契約は1年更新で最長3年です。最終年度まで契約更新していただけるよう努力すると同時に、それ以外の仕事を増やす道も模索しています。一例として、今年(2023年)4月から町内の川俣高校で映像制作の授業を担当させてもらいました。東京との2拠点生活はこれからも続けますが、協力隊卒業後も、川俣町を拠点として東北地方の仕事を拡大していけるよう準備していきたいです。
佐原 孝兵(さはら こうへい) さん
東京都江東区出身。インフラ系の会社に勤務した後、映像制作会社勤務を経てフリーの映像クリエイターを志し、2021年7月に独立。2022年春、川俣町の地域おこし協力隊員(起業・個人事業主型)となり、東京にも拠点を残しつつ川俣町に移住。町の事業者や個人をテーマにしたドキュメンタリー映像、「帰れる場所はひとつじゃない」シリーズを制作している。
※内容は取材当時のものです。
取材・文:中川雅美(良文工房) 撮影:五十嵐秋音