生活・その他

【コラム】「核災12年」に見る希望

2023年2月28日
南相馬市
  • チャレンジする人
  • まちづくり

これまで 「未来ワークふくしま」では、福島12市町村で活躍する移住者のインタビュー記事を中心に掲載し、福島12市町村で暮らし、働く魅力をお伝えしてまいりました。

今回は、地域再生への取り組みを続けている南相馬市在住の高橋美加子さんが自らの言葉で綴ったコラム記事を通し、地域住民の視点から見た福島12市町村の魅力をお届けします。


高橋美加子|「株式会社北洋舎クリーニング」取締役会長
1948年生まれ。20歳の時に、父親が南相馬市で創業した「株式会社北洋舎クリーニング」に入社し、54歳で代表取締役となる。震災直後から自社のホームページを通して被災地の情報を発信しつつ、志を同じくする若者とともに住民主体のまちづくりに取り組むなど、地域再生に向けたさまざまな活動を行っている。

故郷を追われて

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、地震、津波、原発事故による複合災害を引き起こし、福島県の浜通りに住む私たちの人生を激変させました。福島第一原子力発電所の原子炉建屋は相次いで水素爆発を引き起こし、原発から半径30km圏に住む人たちを次々と故郷から追い立て、その後何年も戻ることを許されない流浪の旅へと追いやったのです。

私の住む南相馬市原町区は30㎞圏内にあるため、原発事故後、ほとんどの人がまちを離れ、震災前は約70,000人だった南相馬市の人口は、一時、10,000人を切るところまで追い込まれました。閑散としたまちに残ったのは、地域の機能維持に関わる行政、医療、消防、警察、建設関連の仕事の従事者とその家族、そして避難したくてもできなかった人たちでした。

私は、父が創業して63年目に入った会社「北洋舎クリーニング」を守るために、南相馬市に単身で残る覚悟を決めていました。しかし、14日に2回目の水素爆発があり、15日には3回目の爆発が起こることが必至という状況の中で、妹たちに「あなたを残していったら、私たちの心が休まらない」と説得され、15日の未明に急いで荷物をバッグに詰め込み、妹家族の車に乗せられ、原町区を離れました。

南相馬市の境にある八木沢峠まで来た時、「もう二度と故郷には帰れないかもしれない……」という気持ちが初めて実感として込み上げてきて頭の中が灰色になり、絶望感から全身の感覚が失われていったことを今でも鮮明に覚えています。

その後、福島市内にあるホテルで2日間過ごし、17日には、35㎞圏にある次女の嫁ぎ先に避難していた夫と帰省していた長女家族と合流し、水と電気が復活した宮城県仙台市にある長女家族のアパートに落ち着きました。

その翌日、病気の母のことが心配で東北大学病院に行くと、入り口に「南相馬市から来た人はスクリーニングを受けてください」と書かれた段ボールを持った人が立っていました。家族全員でスクリーニングを受けた結果、私の履いていた靴だけが基準値をオーバーしていたことが分かり、そのまま没収されました。代わりにたくさん用意されていた緑色の運動靴を履いて帰ったのですが、放射能汚染が決してひとごとでないことを知り、衝撃を受けました。私の靴は2日間、生まれて間もない孫もいる狭いアパートの狭い玄関に置かれていたのです。衝撃で家族皆、無口になり、うなだれて帰ったことは今でも忘れられません。

その後、私は「北洋舎クリーニング」に勤める従業員の安否確認に追われていたのですが、所属している「福島県中小企業家同友会」の会員さんからの情報で、南相馬市が野犬と強盗のまちになっているということを知りました。店に残してきたお客さまからの大切な預かり品が気がかりで、矢も盾もたまらず、「放射能で死んでも構わない」という覚悟で、22日に知人の車で南相馬市に戻りました。

「そこに住む人がいなくなった時、故郷は故郷ではなくなる。一人でも住む人がいれば、故郷はなくならない。私がその一人になろう。たとえ放射能に汚染されたとしても」――それが、私が南相馬市に戻ると決めた時の心境であり覚悟でした。

「30㎞圏」という大きな注意看板を通り過ぎ、自宅に戻ると、そこには前と何も変わらない静かで美しい故郷の自然が広がっていて、心からホッとしたことを今でも昨日のことのように思い出します。早速会社に行き、やりかけのまま残していた仕事を片付けていると、いつの間にか夜になり、いつもの仕事の帰宅時間と同じ夜8時頃、外に出て車のエンジンをかけ走りだしました。

外には1台の車もなく、家々の明かりもなく、街灯だけがメインストリートに白く光っていて、この世のものとは思えない、恐ろしい冷たさがまちを支配していました。夢中で車のスピードを上げまちの中心部を抜け、水田のある場所まで来た時、やっと暖かさを感じ、心底救われた気がしました。そこには大自然の中で生きる、生き物の命のぬくもりが変わらずに息づいていたからです。

今まで抽象的な概念で「まち」というものをとらえていましたが、人の存在そのものこそがまちであり、人の体温がまちのぬくもりを作っていること、そして一人一人の「いのち」そのものがまちであることを確信した瞬間でした。

人の心がまちをつくる

この体験が、私を経済優先主義社会からの呪縛から解き放ち、住民主体のまちづくりに取り組み始めるきっかけとなりました。

2011年4月に若者たちと一緒に「つながろう南相馬」という団体を立ち上げ、“ありがとうからはじめよう!”という旗を作り、地元企業の協力を得て街中にその旗を立てたり、市役所や警察署や自衛隊へ感謝の気持ちを込めたポスターを贈ったりするなど、住民を元気にする活動を始めました。

一番印象に残っているのは、6月になり、復興活動に取り組む住民が心身ともに疲弊してきた時に開いた、医師の鎌田(みのる)さんと歌手のさだまさしさんの講演会です。鎌田先生には「にもかかわらずにいきる」というタイトルで講演をしてもらい、さださんは親類が長崎で被爆したことを、自分自身の赤ちゃんの時のエピソードなども交えて語りつつ歌を聞かせてくれました。そこには1,000人を超す市民が集まり驚きました。2人の温かい励ましを受けて「被災後、初めて涙を流せました」と、多くの方々から感謝の言葉をいただけたことがうれしかったです。

その後、住民による住民のための復興を目指して語り合いを重ね、2012年2月に「ダイアログin南相馬」という住民主体の大規模な語り場を開催しました。そこで生まれた「子どもたちを守ろう!」という多くの声を具現化しようと、3月に、初めて子どものための屋内遊び場を自力で作り、ここから「みんな共和国」という団体が生まれ、8月には除染が済んでいた市内の「高見公園」に手作りの屋外遊び場を造って開放しました。それが「ネスレ日本株式会社」の目にとまって遊具の寄付を受けることになり、本格的な遊び場ができ、さらに、地域内外の企業の協力で子どもたちのための水遊び施設も造ることができました。今では「高見公園」は、子ども大人も楽しめるまち一番の公園になっています。

また、2011年7月、全国から来ていた子どもの保養支援の申し出がうまく運ばず混乱していた時、世界各地を巡る船旅などを展開する「ピースボート」と「一般社団法人ピースボート 災害支援センター」やPTAの代表に声をかけて受け皿になってもらい、1000人を超える親子の保養を実現させてもらいました。この活動で「南相馬子どものつばさ」というNPOが生まれ、今でも活動を続けています。

このように若者と一緒にさまざまな活動に関わったことで、人の心がまちをつくるということをさらに実感するとともに、心に傷を負った人たちがたくさんいるという現状も見えてきました。そのため、私は2016年に「まなびあい南相馬」という団体を立ち上げ、地域の人たちが語る暮らしや体験などの「自分史」の聞き書きやファシリテーション、心のセルフケアや、演劇的手法を取り入れて心と体を解放する身体詩ワークショップなどを行い、今も活動を続けています。

また、原発から半径30㎞圏という見えないバリアで外部と遮断されていた2011年4月10日に、南相馬市に住み続ける私たちの気持ちを外部の人たちに知ってもらおうと、会社のホームページに「知ってください」というタイトルで記事を書きました。その後「南相馬からの便り」と題して2013年の10月まで不定期で記事を更新し続け、地域再生へのさまざまな動きを伝えてきました。

こうした活動がご縁となり、たくさん人のとのつながりも生まれました。その中には、南相馬市に書店「フルハウス」を開いた柳美里さん、「トモダチプロジェクト」を立ち上げた狩野菜穂さん、「もとまち朝市」を始めた戸田光司さんなど、震災直後から移住・定住して地域活動を続けている人や、二地域居住をしながら自力でコミュニティづくり活動を続けている「チームあるって」の堀越圭介さんなどたくさんの人がいて、子どもたちの未来を真剣に考える人たちとの温かい交流が今も続いています。

12年前、原発事故はこの地に絶望をもたらしましたが、その絶望の中から生きようと立ち上がり動き続けた人たちがいて、被災地は空白地帯にはなりませんでした。その例として、まちの再生を目指した私の友人たちは、南相馬市小高区への立ち入り制限が解除された2012年4月から、熱意を持ってたゆまぬ努力を続けてきました。小高で育てたお蚕さまから紡いだ絹糸を小高の草木で染めた絹織物は「MIMORONE」というブランドになり、小高産の唐辛子を使って商品を開発してきた「小高工房」の商品はふるさと納税の返礼品にも採用され、どちらもオンラインショップで販売されています。小高駅前にある「双葉屋旅館」の女将が開いたアンテナショップ「希來(きら)」は、地域の女性たちの雇用を生み出し、今も多くの人を南相馬に引きつけています。

こうした流れを経て、今、浜通りは新しい価値観を求める人たちの実験的生き方のフィールドワークの場となり、さまざまなコト、モノが生まれ始めています。これから移住を考える人には、このような長年の先人たちの苦悩と努力があって今の浜通りが成り立っていることをぜひ知っていただきたいです。復興半ばの地域に移住するには、たくさんのハードルがあるのが現状です。それを踏まえて覚悟を持って移住を決めてほしいというのが、地元に住む私の気持ちです。

これからもまちに集う人々の希望が新たな希望を生む、新しい福島創生への取り組みが絶えませんように……。

朝ごとに新しき光生まれくる美し地球のわれら一粒   美加子