広野町で新規開業。整体の技術で地域の人々の健康を支え、笑顔にしたい
- 出身地と現在のお住まい
埼玉県加須市→広野町 - 現在の仕事
「騎西のパイラ整体院」経営 - 移住を決めた理由
開業にあたり同業他社の相対的な少なさ、交通の便の良さ
2024年7月、埼玉県から広野町に移住した池谷昭男(いけたに・あきお)さん。長年培ってきた整体の技術で、広野町民はもちろん、この地域で暮らす人・働く人たちの身体を癒したいと「騎西(きさい)のパイラ整体院」を開業しました。その印象的な院名に込められた思いとは?移住決断までの経緯とともにご紹介します。
自身の腰痛体験から整体の道へ
――現在のお仕事について教えてください。
整体とは痛みの基となっている身体の歪みを治すものです。リラクゼーション系マッサージをイメージして来院される方もいますが、お身体を診させていただくと、大抵いろいろな歪みをお持ちなので、それらを矯正する施術を行っています。
施術時間は10時~17時半(受付は9時半~18時 ※17時半~は翌日以降の予約を受け付け)。お仕事帰りの時間をご希望の場合は個別にご相談を承っています。また、畳2枚分のスペースがあればどこでも施術は可能なので、ご依頼があればご自宅などへの出張も可能です。
――開業から約3か月、ここまでいかがですか?
おかげさまで「ぼちぼち」の「ぼ」くらいまで来たでしょうか。開業にあたっては、広野町の青木裕介さんにデザインしてもらったチラシを新聞に折り込みました。また、青木さんがインスタグラムで発信してくださったおかげで、開業初日からリピーターのお客様も獲得できました。
今後は自分でもSNSを活用していこうと思っていますが、やはりいちばん強力なのはご紹介や口コミかなと。地域のイベントに積極的に出店するなどして、まずは知っていただく努力を続けていきたいです。
――そもそもなぜ整体を学ばれたのですか?
私は長らく家業のプロパンガス会社で働いていました。重いガスボンベを取り扱うので、父も兄も家族は全員ひどい腰痛持ち。私自身も腰を痛めてカイロプラクティックに通い始め、施術してもらううちに、予防のためにも自分で腰痛のメカニズムを学びたくなったのです。
それで、家業の傍ら地元・埼玉のカイロプラクティックの学校に3年、東京の専門学校に1年通い、群馬県内のとある出張整体専門の先生の下でも3年間修業しました。その後、温浴施設内のマッサージ処で働きながらさらにボディワークの研修を受け、全国チェーンのマッサージ店でも1年半働きました。
学び始めてしばらくは本格的に整体を仕事にしようとまでは考えておらず、ずっと家業と兼業だったのですが、やがて家業継承の心配がなくなったこともあって独立を決意し、2018年に埼玉県加須市騎西で整体院を開業しました。
東北との縁をたどり広野町へ
――その後、広野町に来るまでの経緯をお聞かせください。
開業3年目の2020年に新型コロナウィルス感染拡大が始まると、お客さまが激減してしまい、翌年には廃業せざるを得なくなりました。この先どうしようかと考えたとき、頭に浮かんだのが東北という新天地での再出発でした。なぜ東北かというと、いくつかのご縁があったからです。
私が社会に出て最初に就職したのは日本ユースホステル協会でした。当時、宮城県松島市にできたばかりの「パイラ松島・奥松島ユースホステル」に配属となり、接客業に従事。これがとても楽しかったんです。お客さまから旅の話を聞いて自分もそこへ行ったような気持ちになれたし、昼休みは目の前の海で涼んだり泳いだり。事情により、まもなく家業を手伝うため埼玉に戻ったので、短い期間ではありましたが、ものすごく充実した時を過ごしました。
ですから、2011年の東日本大震災の津波で、そのユースホステルが壊滅的な被害を受けたこと、当時お世話になったみなさんの中に行方不明となった方もいることを知ったときは胸が痛みました。建物はなくなっても、当時の思い出はずっと私の中に生きています。
――それで院名に「パイラ」と。福島県とのご縁はどのようにできたのですか?
きっかけは、私の母校である埼玉県加須市の旧騎西高校が東日本大震災直後、双葉町民の方々の避難所になったことです。大好きな母校の校舎に、大変な思いをして福島からたどり着いた方々が大勢身を寄せておられるとニュースで知り、いても立ってもいられず、何かできることはないかと一人で避難所を訪ねました。
聞くと、整体やマッサージのような活動の個人ボランティアは受け入れが難しいとのことでしたので、代わりに体育館に畳を敷いたり、物資を運搬したりなどの力仕事を手伝いました。もっとも、仕事の合間だったのでそれほど頻繁に行けたわけではありません。でも、そのときに聞いた「早く双葉に帰りたい」というみなさんの声は私の記憶に深く刻まれ、以来ずっと双葉町のことが心の中にありました。整体院名に「騎西の」を入れたのは、双葉郡の方々にご理解いただけるであろうと思ったからです。
――広野町とはどのように出会いましたか?
私が福島県浜通りを初めて訪れたのは、加須の整体院を閉じた翌年、2022年11月のことです。被災地を巡るスタディツアーに参加し、現状をこの目で見て、ご縁をいただいた双葉町をはじめこの地域の人たちの力になろうと移住・開業の気持ちが固まりました。ただ、そのツアーでは広野町は訪問しておらず、当時は「火力発電所がある町」くらいの認識でした。
その後、家の近くの工業団地で働きながら開業資金の準備をしていたところ、今年(2024年)3月、たまたま広野町主催の1泊移住体験ツアーの募集を発見。参加したところ、とても充実して楽しかったのです。ちょうど良い賃貸物件がすぐ見つかったことはもちろん、交通の便が良いこと、競合する事業者が少ないことなどが決め手となり、移住を決めました。
実は、東北への移住を考え始めた最初の頃は宮城県内のとある市町村への移住を真剣に検討したり、浜通りのスタディツアー直後には双葉郡内の別町村の移住体験イベントに参加したこともありました。どちらもかなり具体的に準備するところまでいったのですが、そのたびに実家の事情や自分の体調が原因でキャンセルせざるを得なかった経緯があります。
――広野町が三度目の正直だったのですね。お住まいの物件はどうやって見つけましたか?
移住体験ツアーのとき、住まいに関しては賃貸アパートだけでなく一軒家の借家もあると聞き、それなら住居と整体院を兼ねられると思いました。まもなく広野暮らし相談窓口「りんくひろの」の方からちょうどいい物件を紹介いただき、5月に見学のため再訪。即決でした。なお、経済的な支援制度の利用に関しては、福島県12市町村移住支援金をこれから申請予定です(転入3ヵ月後から申請可能のため)。
お客さまの笑顔がいちばんのやりがい
――広野町での生活はいかがですか?
ここは涼しい!夏の暑さで有名な北埼玉(「日本一暑いまち」熊谷市がある地域)から来たので、とても過ごしやすく感じました。
家の周りが林なので最初は虫の多さに辟易したものの、それは想定内でした。ただちょっとびっくりしたのは、近くに防災無線スピーカーがあって、朝6時に放送があること。最初は驚いて目が覚めました(笑)。今は慣れたので熟睡し続けられますが、以前よりも朝型生活になったのは確かですね。
車があればどこでも行けるので、日常生活に不便はまったく感じません。ふだんの買い物は、広野町内のスーパーだけでなく、隣の楢葉町のスーパーに行くことも多いです。
――ご趣味が「笑い文字」だそうですね。
笑い文字普及協会の講習を受けて習得しました。お客さまには、この文字でお名前を書いたハガキ大の紙を予約カードとしてお渡ししています。裏に次回の予約日時を記入するんです。これならうっかり失くされたりしないでしょう。この仕事は、お客さまの笑顔がいちばんのやりがい。笑い文字もお客さまの笑顔を見たくてやっています。
――どのような整体院を目指しますか?
まずは広野町に根付くことを最優先に考えていますが、商圏は双葉郡内全体と捉えています。整体を通して元々ご縁のあった双葉町の方々のお役にも立ちたいし、原発の廃炉作業などで身体を酷使している方々の力にもなりたい。少しずつ地域に浸透し、ゆくゆくは双葉町内にも支店を出せたらいいな、と思っています。
――広野町への移住を検討している方にメッセージをお願いします。
まずは足を踏み入れてみてください。迷うことや困ったことがあっても、必ず助けてくれる人、アドバイスをくれる人がいます。私も、移住体験ツアーで出会った地元のみなさんはじめ、多くの方の協力がなければ移住・開業することはできなかったでしょう。ぜひ一度現地を訪れ、地域に触れてほしいと思います。
池谷昭男(いけたに・あきお) さん
1970年生まれ。埼玉県加須市出身。家業の会社に勤務しながら整体の技術を修得。2018年に地元で整体院を開業するもコロナ禍で閉院。東日本大震災をきっかけに縁のできた双葉町はじめ被災地の人々の力になりたいと、福島への移住を決意。2024年7月、広野町で「騎西のパイラ整体院」開業。
※内容は取材当時のものです。
取材・文:中川雅美(良文工房) 撮影:中村幸稚