移住者インタビュー

「今を大切にすれば、良いところにたどり着ける」と思わせてくれる楢葉町での暮らし

2022年3月17日
楢葉町
  • チャレンジする人
  • 子育て
  • 移住支援金
  • 転職
  • 移住のきっかけは?
    移住を考えた時に、震災後に訪れた楢葉町で「わらじ組」の方たちと交流したことを思い出した
  • 実際に移住するまでの経緯は?
    ふくしま12市町村移住支援センターに問い合わせ、町役場につないでもらった後、まちづくり会社などとオンラインミーティングを重ねて家や仕事を決めていった
  • 移住して良かったと思うこと
    役場やまちづくり会社の皆さんの手厚いサポートによって、家族との時間がぎゅっと充実できている

2021年11月に東京から楢葉町へ移住した米川奈穂美さんは、町で長年愛されるスーパー「ブイチェーンネモト」の惣菜担当者として働いています。移住を決めるまで、楢葉町には一度しか足を踏み入れたことがなかったという米川さん。「一目ぼれ」したこのまちで、小学4年生の息子さんと二人、充実した日々を過ごしています。

移住するまで縁もゆかりもなかったという楢葉町でこの暮らしを手に入れることができた背景には、町役場やまちづくり会社「ならはみらい」の手厚いサポートがありました。ご自宅である町営住宅にお邪魔して、移住するまでの経緯や町での暮らしについてお聞きしました。

決断からわずか2ヵ月で整った移住の準備

――楢葉町と縁ができたきっかけは何だったのでしょうか。

楢葉町には、2016年に参加した生活協同組合のスタディーツアーで初めて足を踏み入れました。その時、古Tシャツを使ってわらじを編む活動をしている「わらじ組」の方々と出会ったんです。わらじ組は仮設住宅に避難していた時に仲の良かった地元の人達がメンバーとなって生まれたそうです。その中には、私が当時住んでいた市の隣町から楢葉町に移住して被災したという方もいらっしゃいました。そういう親近感もあってか、楢葉町で暮らす方々と一緒にわらじを編んで、食事をした時間がすごく楽しい思い出になりました。

帰り道で田んぼの景色を眺めながら「いつかこういうところに住みたいな」と思ったのを覚えています。偶然なのですが、その時に見た景色はいま、家を出ると目の前に広がっています。

――移住を決めたきっかけは何だったのですか?

母が亡くなり身寄りがなくなったことですね。東京にいる意味もないし、窮屈な東京ではなく、どこか田舎にいきたいなと考えていました。そんな時に楢葉町のことを思い出して、「未来ワークふくしま」のサイトを見て、訪問当時はバリケードがたくさんあった楢葉町で復興が進んでいることを知りました。楽しかった思い出もよみがえってきて、東京とのアクセスの良さや小学4年生の息子が過ごす環境など、いろいろなことを考えたうえで移住を決断しました。

――移住を決めた時に周囲の反応はいかがでしたか。

「放射能は大丈夫なの?」とかなり言われました。私は原発事故や放射線量について勉強していたので大丈夫ということは分かっていましたが、東京で暮らす人にはあまり正しい情報が届いていないんだなと軽いショックを受けました。

――実際に移住するまでの経緯を教えてください。

2021年9月にふくしま12市町村移住支援センターに問い合わせ、約2ヵ月後の11月に移住しました。その間、町役場や移住支援をしてくださる一般社団法人「ならはみらい」のご担当者も交えて2回ほどzoomでミーティングをして、東京に居ながらにして住まいや就職先の面接を調整していただきました。移住を決めてから楢葉町に来たのは10月の一回のみで、その日のうちに息子の転校のために教育委員会へあいさつに行き、いくつかの候補から住宅を選び、仕事の面接もしてもらいました。ならはみらいの担当者の方が一日同行して案内してくださいました。

また、移住直後には役場の担当者の方が、まだ車がなかった私に転入手続きや引っ越し後の買い物、コインランドリーや銀行口座の開設にまで同行してくださいました。「なにかあったらすぐ連絡ください」と言ってくださったことが、とても心強かったですね。

――移住後の息子さんの様子はいかがですか。

東京で通っていた学校の5分の1ほどの児童数のなか、人懐っこい子なのですぐに友達もできて、いい形で学校生活を送れているみたいです。東京ではサッカーのチームにも入っていたので、Jヴィレッジのサッカークラブに通わせたいと思っています。

ペーパードライバーが一変。ドライブが趣味に。

――現在のお仕事を教えてください。

地元の老舗スーパー「ブイチェーンネモト」で働いています。最初は魚をさばけないのに鮮魚担当として採用していただきました。その後、魚をさばける方が入社してくれたので、今は惣菜部門でお弁当を作っています。

――実際に働き始めていかがですか。

お客さんが人懐っこい方が多くて、よく話しかけてくださるので面白いですね。楢葉町唯一のスーパーでもありますが、「これ赤字じゃないの?」と思ってしまうぐらいリーズナブルで、わざわざいわき市や富岡町から楢葉町まで買いに来てくださるお客さんも多いのがうれしいですね。

――移住に当たり支援金などは利用されましたか。

最大200万円が支給される「福島県12市町村移住支援金制度」を申請中です。この制度には無期雇用契約の条件がありますが、私は23歳で結婚してこれまで正社員の経験がありませんでした。不安でしたが、ならはみらいの担当者の方が面接に同行するなどサポートしてくださったおかげで無事採用していただけました。

――町での暮らしには車が必要だと思いますが、車の運転は大丈夫でしたか。

移住するまではカーシェアでたまに運転する程度で、ほぼペーパードライバーでした。ガソリンの入れ方も分からず、車を購入した販売店の方に教えていただいたほどでしたが、今はドライブが大好き。息子との道の駅めぐりが趣味になっています。

――移住して想定外だったことはありましたか。

通院が不安ですね。町に唯一ある歯医者は週何回かの診察が午後4時には終わってしまうので仕事の都合で行けず、車で1時間かけていわき市まで通っています。具合が悪くなった時にすぐに病院に行きたくても難しいし、近くにはドラッグストアもない。東京にいればタクシーで行くという手もありますが、楢葉町のタクシーは夜の早い時間に営業が終了してしまいます。夜中何かあった時に困ってしまうので、お酒はやめました。

家族との時間がぎゅっと充実するようになった

――移住後の暮らしはいかがですか。

役場のみなさんのおかげで、知り合いもいなかったこの地でも無事に生活できており、息子の自転車のブレーキが外れてしまった時にはすぐに自転車を直せる方を連れてきてくださったり、組み立て式の家具の組み立てに悩んだ時にはお父さんが大工という方を連れてきてくださったりなど、本当に何でも助けていただいています。

――これから暮らしていくにあたっての目標などはありますか。

毎日が楽しければいいなと思っています。生まれも育ちも目黒区で、憧れの対象になるようなおしゃれで便利な場所で生まれ育ちました。でも東京で暮らしていた頃は人間関係も含めてしがらみがすごく強くて、なぜか周りと比較してばかりいたような気がします。それが窮屈で、私には生きづらかった。それが、すーっと楽になりました。楢葉町には東京のように遊ぶ場所はあまりありませんが、そのぶん一日一日の家族との時間がぎゅっと充実しています。

私も息子も、いつか東京に帰るという選択肢もあります。それでも今を大事にしていれば、その先がどこであろうと、自分たちにとって良いところにたどり着けるとこの町では感じられます。一番は人と人のつながりを大事に、感謝の気持ちを忘れないで過ごしたいですね。

――移住を検討している方へメッセージをお願いします。

町の皆さんが支えていただきこうして生活できていることで、私も移住例の一つになれるかな、と思っています。でもテレビなどを見ていると、「移住=うまくいく」という方程式が独り歩きしているような気がしてしまうこともあります。のびのびした生活に憧れる、という思いだけで飛び込んで失敗してほしくはないと思いますね。まずは12市町村移住支援センターや役場などに相談して、移住先の雰囲気を再確認した上で移住を決めることをおすすめします。

米川 奈穂美(よねかわ なおみ) さん

1977年生まれ、東京都出身。2021年11月に小学生の息子と母子で楢葉町に移住。「ここなら笑店街」内の「ブイチェーンネモト」で惣菜担当として勤務している。

※所属や内容、支援制度は取材当時のものです。最新の支援制度については各自治体のホームページをご確認いただくか移住相談窓口にお問い合わせください。
文:五十嵐秋音 写真:杉山毅登