田村市のUターンで得た、余白を持ちつつ仕事と子育てを両立できる暮らし
・家族構成:夫の母、夫の弟、夫、妻、子ども2人(小学3年生・1年生)の6人家族
・移住後の住まい:田村市船引町の夫の実家
・移住前の居住地:千葉県流山市
・移住年月:2023年4月
千葉県流山市から田村市船引町へ、小学生のお子さん2人を連れてUターン移住した橋本さん夫妻。現在、夫の吉央さんの実家で、吉央さんの母、弟との二世帯で暮らしています。
仕事をしながら夫婦だけで子育てをすることに一種の「詰み」を感じていたという橋本さん夫妻が両立の鍵として選択したのが、地元に帰ることでした。妻のあやさんの実家も田村市の隣、三春町にあります。ご両親の手も借りながら田村市での子育てを始めたお2人に、Uターン後の変化や田村市の子育て環境について聞きました。
夫婦だけで子育てをすることに限界を感じていた
――Uターンを決めたきっかけを教えてください。
吉央さん この家では祖父母と私の父母・弟の5人が暮らしていたのですが、2022年に立て続けに祖母と父が亡くなり、祖父も高齢なことが気がかりになっていました。
もともと、夫婦だけで子育てに必要なすべての役割を果たすことが大変だと感じていたんです。子どもにとっても、仕事が忙しく余裕のない両親のほかにも大人が近くにいて何かあったら頼れる環境のほうが良いと思い、実家の家族のことをきっかけに福島に戻ることを決めました。
あやさん その時期にちょうど、大きな理由があるわけではなく娘が学校に行きたがらない日が続いていて、フリーランスとして在宅で働く私の仕事がなかなか進まないのが困りごとでもありました。福島に戻って娘が学校に行かなかったとしても、ほかに見てくれる大人がいれば仕事とのバランスは取れると考えました。
――移住のタイミングはどのように決めたのでしょうか。
あやさん 2人とも転校となると負担になるので、下の子が小学校に入るタイミングにしました。上の子には福島に戻ると決めた段階で「今の友達や先生はいない、別の学校に行くんだよ。でもおじいちゃんやおばあちゃんたち、たくさんの家族と暮らすことができるね」と伝えていました。はじめは友達と会えなくなることに寂しそうな様子でしたが、3学期に入ってからは自分から友達や先生に転校すると話していたようで、彼女なりのペースで新しい環境に移る準備をしてくれていたのでしょうね。
――転校後、娘さんの様子はいかがでしたか?
あやさん はじめはなかなか教室に入れない時期もありましたが、緊張が解けてきたのか半年が経った今は学校に行くのに前向きになって、よく学校の話をするようになりました。
登校時間は千葉にいた時の徒歩5分から徒歩30分に増えたこともあり心配していたのですが、集団登校で上級生がついてくれて、みんなでおしゃべりしながらだとあっという間のようです。登下校で体力を使うのか、よく食べよく寝るようになり、それで体力もかなりついていると感じます。
子育てに関わる大人が増えたことは、子どもにとっても良かった
――お2人はお仕事を変えずにUターン移住をされました。普段どのように働いているのか教えてください。
吉央さん 私は東京の障がい児の保育園を運営するNPOで管理職として働いていて、週の半分はリモート、残りの半分は東京都千代田区の本社や運営している園に出勤しています。電車で郡山駅まで出て、新幹線で東京駅まで約80分。滞在期間中はホテルに宿泊しています。
あやさん 私はフリーランスのまんが家、イラストレーター、ライターをしています。夫婦で家から車で5分ほどの距離にある田村市テレワークセンター テラス石森の一室を借りて、18時まで仕事をしています。
吉央さん リモートの時は私もテラス石森の部屋を使っています。新幹線の中でも仕事はできるし、テラス石森では集中できる。大変な生活ですね、って心配されることも多いのですが、仕事の時間・家族の時間・一人の時間のメリハリがついて、よりそれぞれの時間を大切にできるようになったような気がしています。
――フリーランスとして働くあやさんは、移住後のお仕事はどうですか?
あやさん 千葉に住んでいた頃は自治体や地域の方との直接のつながりからお仕事をいただくことが多く、自分が生活している地域で誰かの何かの役に立つことにやりがいを感じてきました。だから、移住することで仕事がどうなるのかは不安だったんです。福島にきてからも同じように地域で仕事がしたくて、SNSで地域のことをイラストにしたり、地域のイベントに顔を出したりと、とにかく足を止めずに自分のことを知ってもらう努力をしています。
インスタグラムの投稿を見てくれた市内の「星の村天文台」からシンボルマーク作成のご依頼をいただいた時は、「やったー!」と叫びました(笑)。
――ご家族からはどのようなサポートを受けていますか?
あやさん 私たちは18時までテラス石森にいるので、子どもたちが帰ってきてからは、お義母さんが宿題を見ていてくれたり、買い物や児童館に連れて行ってくれたりと、おんぶにだっこ状態。夫の弟は夕方から仕事に行くことが多いので一緒に子どもを迎えて遊んでくれて、それが私たちよりもすごく上手で、お任せしちゃっています。私の実家も隣町の三春町なので、夏休みはそちらに預けることもあります。だから、今は学童保育は使っていないんです。
吉央さん 母は家族の介護などで、2022年から退職して家にいました。もともと幼稚園の先生をしていたこともあって子どもが好きで、家族の中でうまく役割を回せているような気もします。親だけが子育ての責任と実務をすべて背負って抱え込むことは、必ずしも子どもにとって良い影響にはならないと思っていて。だから子育てに関わる人を増やせたのは、家族にとっても子どもにとっても良かったと思います。
実家に戻った直後に祖父は亡くなりましたが、にぎやかになった家で笑顔が増えたようでした。そうした意味では、家族孝行もできたと感じています。
――子育ての環境としてはいかがでしょうか。
あやさん 千葉にいた時は賃貸の集合住宅の3階に住んでいたので、子どもたちが走ったり大声を出すと迷惑にならないか心配でした。今は思い切り遊ばせても注意して止めさせなくて良くなり、気持ちも楽になりました。
吉央さん こちらに来て初めて地域の子どもの育成会に入ったんです。キャンプや夏祭りを通じて子どもだけではなく親も同世代の子育て世帯とつながれて、近くに住んでいる家族同士で子どもを気に掛け合えるようになっています。育成会は必ず入らなきゃいけないという雰囲気でもなく、必要であれば入るぐらいの温度感で、僕たちもすんなり入っていくことができました。
――よく利用する遊び場はどちらですか?
あやさん 田村市子育て支援センターにある船引児童館によく行きます。常駐している支援員の方もいて、子どもを見てくれます。息子は遊具が、娘は支援員の方のお手伝いをするのが好きで、それぞれの時間を過ごしています。夏の暑い日は、屋内遊び場の「おひさまドーム」が最高です。外に出させたくないほど暑い日もあるので、屋内で遊ばせられる場所があるのは良いですね。子どもがまだ赤ちゃんだったら毎日連れて行っていたかもしれません。
「最後の砦」から解放され、仕事でも挑戦できるように
――Uターン後にご自身の変化はありましたか?
あやさん 切羽詰まることが減りました。千葉にいた頃は家事、育児、仕事のぜんぶを頭に入れて常に時間に追われていて…。気持ちの余裕がなかったですね。でも周りのお母さんたちもみんなそうだったから、「大変だけどこれが普通だし、なんとかなるよね」って思っていた。夫と協力はしていましたが「最後の砦は私」という意識が強くて、ずっと気を張っていたんです。そうしていると仕事の意欲もなくなってしまって、自分を責めてしまうこともありました。
こっちに戻ってきてからは、覚えておかなきゃいけないことの種類が減って、自分ができなくても誰かがいる、と思えるようになれました。自分の中で余白ができて、仕事で新しいチャレンジをしたいと思えるようにもなったんです。
吉央さん 大人の手が増えたことで僕自身が直接子どもに手をかける時間は減っていますが、子どもにとって親、祖父母、叔父など、いろいろな大人との関わりがあることが良いと思っていて。親として子どもと関わることもすごく大事ですが、そこにこだわりすぎないというか、うまく役割を分けることが大事だと考えています。
――これからチャレンジしてみたいことを教えてください。
吉央さん いまは着実に今のスタイルで生活していくことを大事にしていますが、地域に何らかの形で貢献できる機会を探っていきたいと、漠然とですが考えています。
あやさん 仕事に集中できる環境も整ったので、もっと仕事を頑張りたいですね。公共に近いところで、まだ知られていない良いサービスや、ものごとを正しく伝える仕事をしていきたいです。そして、社会が良くなることにつなげていきたい。ちょっと大げさですけど。今より技術を磨いて、最終的には県や国などインパクトのある場所で仕事をすることが目標です。
橋本吉央(よしちか)さん、あや さん
ともに1985年生まれ。吉央さんは田村市船引町、あやさんは隣町の三春町出身。吉央さんは東京の障がい児向け保育施設を運営するNPOに勤め、半分リモート・半分出勤の生活を送る。あやさんはフリーランスのまんが家、イラストレーター、ライターとして活動している。
あやさんのホームページ
※所属や内容は取材当時のものです。
文・写真 五十嵐秋音