移住者インタビュー

飯舘村はなんにもないけどなんでもできるフロンティアだ!

2023年10月16日
飯舘村
  • 農林漁業

コロナ禍の一昨年、宮城県岩沼市から50㎞離れた福島県飯舘村に妻と3人の子どもと移住し、整骨院を開業。さらに空いている時間に農業を始め、今年から本格的にインゲンを生産し、南相馬市原町区の市場に出荷している長田卓也さん(39)に、移住の理由、飯舘村での暮らし、人生観についてお話を伺いました。

——新規就農されたと聞きましたが、具体的には何を育てているんですか?

9月下旬収穫時期のインゲン

後継者不在で耕作放棄地になりかけていた3haの農地と5haの農地の二ヵ所を借り受け、今年から本格的にインゲンの生産を始めました。若い移住者の仲間をふたり引き連れ、夜10時から採り始め、朝の8時までぶっ通しで作業し、ようやく50㎏ほど収穫できます。
真夏の炎天下で作業できるのは2時間が限界なので、思い切って夜勤にしました。涼しい夜の方が圧倒的に作業時間を確保できるし、品質も向上する。夜露がつくと、色もいいし、実も甘く、昼に採るインゲンとモノがぜんぜん違う。あとは、獣害の問題。ヘッドライトをつけて収穫するから、夜行性の野生動物が寄ってこない。一石三鳥です。

——元々、プロのバレーボール選手を目指していた長田さんがなぜ飯舘村に移住したんですか?

大手製鉄会社の下請けで現場監督、精密機器会社のコールセンター、ステーキチェーンのコックで食いつなぎながら、プロを目指して東京や千葉のチームを渡り歩いていたんだけど、なかなか芽が出なかった。この辺が潮時だと感じ、柔道整復師の資格を取って2014年に故郷の宮城県岩沼市で整骨院を開業しました。順風満帆で年商1千万円を超えるくらいまでいったんだけど、コロナ禍になっちゃって、誰もこなくなってしまったんです。

客足が途絶え、やることがないんで、たくさん時間ができた。ずっと何も考えずに走り続けてきた人生だったので、それまで考えたことがなかった人生の意義について考えるようになった。整骨院の玄関の扉がただ開くのを待っている受動的な人生でいいのか自問自答した。そしたら、もっと自分から打って出る人生にゲームチェンジしたくなったんですよね。

そのフィールドとして、飯舘村がいいなと思ったんです。放射能の問題とか過疎高齢化の問題とか抱えて、めちゃくちゃ大変なところじゃないですか。でも、圧倒的に難しい場所だからこそ、希少性があり、やる意義があるんじゃないかと。そこで何か意義のあることができたら、オンリーワンになれるなって。東京でやっても、まったく私なんか目立たないですしね(笑)。で、一昨年の8月、妻と3人の子どもと飯舘村に引っ越してきました。

——縁もゆかりもない飯舘村に引っ越してきて、まず何から始めたんですか?

すぐにできることからと、家賃5万円で借りた一軒家に整骨院の看板を掲げてみたんだけど、見知らぬ移住者が開いたところで、誰も怪しがって来ませんよね。仕方がないので、時間つぶしに借家についてきた2haの段々畑で農業を始めてみたんです。農業にはまったく興味はなかったんだけど、「先祖代々守ってきたんだ」と語る家主が震災後の10年間、雑草だけは刈り続けてきたことを知って、俺はやりたくないと言えなかった。YouTubeで農業の勉強を始め、実践してみると、意外にも楽しかったんですよ。受け継がれてきた農地と景観を維持することの意義深さも感じました。

そしたら昨年、村の広報に出てくれって、役場から頼まれて、整骨院の記事が掲載されると、電話が鳴りやまずに予約が一ヶ月先まで埋まりました。それで整骨院の仕事の方が忙しくなり、農業をやる時間がなくなった。本当は整骨院はひっそりやりたかったのに。だって、(整骨院以外の)意義のあることをやりに飯舘村に来たんですよ。これじゃあ場所が変わっただけでやってることは同じじゃないかって(笑)。その後、段々に客足も落ち着いてきて、固定客に絞られ、今では農業をやる時間も確保できるようになった。

——整骨院って、どんなお客さんが来るんですか?

避難先から帰還した地元のじいちゃん、ばあちゃんたちばっかりで。でもみんな骨格がしっかりしていた。筋肉のつき方が違い、平地のひとより15歳くらい若い。あぁ、やっぱりここは農業が暮らしの中心にある土地だったんだなと思わされましたね。あとは、あそこは村が管理している農地だとか、あそこは誰々さんちの農地だから貸してくれるか聞いてやっかとか、貴重な情報源にもなった。除染で表土がはぎ取られた痩せた土地でもつくれるインゲンの生産方法を教えてくれたじいちゃんも、お客さんのひとりだった。

——保守的な田舎の閉鎖性に苦労することはないですか?

この村は6年間も避難指示が出されたところで、今は大半の地域で避難指示が解除されてますが、今も帰ってきた村民は2割くらいで、そのうち1割弱の140人が移住者。もちろん新参者だから簡単にいかないことも多いけれど、考えようによっては、ここは『なんにもないからなんでもできる』フロンティアみたいなところなんです。

例えば、農地にはいろんなルールがあるんだけど、これくらいのルールなんかもう気にしなくていいじゃないみたいなところがある。近所に地元住民がたくさん暮らしていたときは、郷に入っては郷に従う必要があったと思うけど、今は暮らしている人がわずかしかいない。郷に従って誰も農業やる人がいなくいなるくらいだったらと、郷の方も柔軟な考えになる、みたいな。もう少し移住者の割合が増えていけば、様々な声がもっと反映されやすくなり、どんどん良くなると思う。

——改めて移住してよかったことはなんですか?

とにかく健康になった。生活環境ひとつで、こんなに変わるんだなって。前は皮膚が弱くてよく汗疹ができたり、風邪もひきがちだったけど、今はもうない。あとは体だけじゃなくて、考え方も強くなったかな。岩沼で整骨院しているときは確かに儲かってたし、患者さんから喜ばれていたけど、変化がないから飽きちゃうんだよね。安定してるがゆえに先が見えるから、予定調和になるっていうか。今は、毎日が選択の連続。お先まっくら(笑)。でも、将棋のように自分で盤面をつくっていけるおもしろさがある。これがたまらないんですわ。

学校を卒業したら当たり前のように会社に就職して、毎朝、同じ時間に出勤して、言われたことをただこなし続け、給料もらって生きる、みたいなやつ多いじゃないですか。僕が今も所属している岩沼のバレーボール社会人チームにもそういうやつが多い。だから飲み会のときに、「ただ一回ぽっきりの人生。本当にそれがお前のやりたいことなのか!」と発破をかけたりしてます。そしたら、僕に感化されて、家族で飯舘村に移住してきた若者もいます。

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長田卓也(おさだ・たくや) さん

1984年生まれ、宮城県岩沼市出身。3児の父。趣味はバレーボール(若い時は国体選手)。一昨年8月に飯舘村に移住。整骨院経営の傍ら、新規就農しインゲンを生産。地域包括ケア支援、移住相談もしている。今年8月、村づくりを担う一般社団法人阿武隈クラブを設立し、副理事に就任。

取材・文:高橋博之 写真:及川裕喜