サッカーW杯日本代表の躍進支えた専属シェフ。次の挑戦は福島で“世界を目指す人づくりと街づくり”
今回お話しを伺ったのは、現在、広野町にお住まいの料理人・西芳照さん。先日のサッカーW杯カタール大会まで長年にわたり日本代表の専属シェフを務めてきました。
激闘を終え、いま胸の内にある“新たな挑戦のフィールド”について教えていただきました。
日本代表”食の守護神”の【感謝】
18年間務めてきた日本代表の専属シェフ。「最後」と決めて臨んだカタール大会で、チームはアジア史上初となる、2大会連続決勝トーナメント進出の快挙を達成しました。
西さんは、歴代の代表選手が愛した試合3日前からのルーティーン、『ハンバーグ』『銀ダラの西京焼き』『ウナギのかば焼き』を今回も提供、チームを活気づけました。
そして、もう一つの“いつも通り”… 地元・福島県産の食材を今回も持参。小名浜のサンマを使った『つみれ汁』は、作っても作っても「足りない」と好評だったといいます。
「大変ありがたかった」「日本代表のみなさんと一緒に仕事ができて本当によかったです」
西さんがこう感謝することの一つに、2011年から続いた、代表チームのある温かい心遣いがありました。
「東日本大震災」直後の【決意】
2011年、福島県楢葉町にあるJヴィレッジで勤務中に被災した西さん。自宅も住めなくなり、一時東京へと避難しました。その後片付けのためJヴィレッジに戻ると、そこは福島第一原発事故への対応の前線基地となっていました。
寝る場所もないような過酷な環境の中、命懸けで事態収束にあたる作業員を目の当たりにし、何かできることはないかと温かい食事を作って提供すると、作業員の一人から「これでもう一回、日本のために頑張れる」と声をかけられたといいます。
食事が現場を明るくするのを見た西さんは、福島に戻ることを決意。2011年9月、Jヴィレッジ内に食堂をオープンしました。
力を合わせて原発事故に立ち向かう中、西さんがもう一つ気にしていたのが、福島県産の食材です。事故後から大きな風評被害を受けていました。
困り果てる生産者たちに何かできることはないかと考えていた時に、手を差し伸べてくれたのが、サッカー日本代表でした。
代表チームが食べることで安全性をPRできるはず、遠征先などにいくらでも福島県産の食材を持ってきてほしいと、代表チームが言ってくれたといいます。サッカー界を挙げての応援は「本当に生産者・業者の励みになった」と西さんは感謝しています。
「若き移住者」たちへの【期待】
「食」で人を、チームを活気づけてきた西さん。震災後、別のことで、地元の雰囲気が「180度変わった」と語る経験がありました。それは、『若い移住者』の存在。
原発事故で避難指示等の対象となった福島県内の12市町村は、除染などが進み制限が解除された後も、人が戻ってこない問題に直面しています。その中の一つである、今お住まいの広野町に、ある日、小さな子供を連れた若い家族が引っ越してきました。西さんはその時のことを「本当に嬉しかった。町全体が活気づいた」と語ります。
いま国は、福島復興の原動力に、この『移住』を活用しようと力を入れています。避難先で新しい生活を立ち上げた人に、すぐに戻ってきてというのは難しいため、住民だった方がいつでも戻れる環境を整えつつ、それとは別に、福島に引っ越して復興に取り組んでくれる人たちを呼びこもうと動いています。
カタール大会での日本代表の躍進を支えた一つに、若い海外組の選手が持ち込む新しい価値観を監督やベテランが受け入れたことも大きかったのでは、と語った西さん。
「若い人たちにどんどん福島にきてもらって、一緒に町を作っていってほしいですね」
サッカー日本代表で起きた“化学反応”が福島の復興でも起きることを、西さんは期待しています。
西さんの新たな【挑戦】
W杯での激闘を終え、地元の福島に帰った西さん。今後の目標を伺うと…
「福島の子供たちに『食育』をしていきたいです。これまで代表選手を多く見てきましたが、活躍する人たちはみな、食べることにも高い意識を持っていました。生きるとは、食べること。たくさんの人たちの未来の可能性を広げるお手伝いをしたいですね」
次のフィールドは『食育』。サッカーが紡ぎ続ける縁は、福島が世界に誇る復興・発展を遂げるその日まで広がり続けていきます。
西 芳照(にし よしてる) さん
福島・南相馬市出身。1997年開設のJヴィレッジで総料理長を務める。
2004年、サッカー日本代表の専属シェフに。ワールドカップ・ドイツ大会から
先日のカタール大会まで5大会連続でチームに帯同。代表の躍進を「食」で支え続けてきた。
■西さんのレストラン「NISHI’s KITCHEN(ニシズキッチン)」
※内容は取材当時のものです。
取材:川原浩揮・岡田晃典