チャレンジするまちの移住支援最前線⑮佐藤真喜子さん(おおくままちづくり公社)
一般社団法人おおくままちづくり公社
佐藤真喜子さん
- どんなお仕事をしているの?
日本酒「帰忘郷」プロジェクトの広報担当やコミュニティをつくる仕事 - 今後やりたいことは?
大熊町に演劇の文化を持ち込み、町民が楽しめるイベントを行いたい - 移住を希望される方へのメッセージ
大熊町はチャレンジにあふれた町です。求む、挑戦者!
人と人のつながりづくりが仕事のやりがい
――現在のお仕事について教えてください。
生まれ育った大熊町で2021年4月から、一般社団法人おおくままちづくり公社の職員をしながら、復興支援員としても働いています。公社の職員としては町の広報を行ったり、日本酒「帰忘郷」プロジェクトの広報担当をしています。復興支援員としては、主にコミュニティ形成支援やコミュニティ団体の運営サポートを行っています。
コミュニティ形成支援は、離れ離れになっている町民同士がつながりを維持し、生活の中で助け合える環境を整えることを目指した活動で、町内だけではなく町外でも行っています。最近では、町内の避難指示解除地域で立ち上がった「おおがわら会」というコミュニティ団体で、復興支援員が事務局を担当して自走化に向けたサポートを行っています。
また、町の外から来た人と町民をつなげることも支援員の大切な役割です。人と人のつながりをつくるこの仕事にやりがいを感じています。
――大熊町の日本酒「帰忘郷」について教えてください。
「帰忘郷」は、大熊町で栽培・収穫された酒米を使用し、会津若松市の「髙橋庄作酒造店」で醸造された日本酒です。クラウドファンディングで全国の方にご支援をいただいて完成し、震災から11年を迎えた2022年3月11日に発売になりました。数に限りがあるのですが、売り切れが続出していて、その反響の大きさに驚いています。
このお酒を通して、大熊町が多くの方から温かい目を向けられているんだということに気づくことができました。原発事故があって、どうしても嫌な感情の方が目立ってしまっていたけれど、温かい方に目を向けるべきだったと思います。
応援してくれる方たちの心に触れることができて、大熊町での仕事をもっとがんばろうと背中を押してもらえました。
――13歳という多感な時期に大熊町で震災と原発事故を経験されました。当時のことを教えていただけますか?
震災があった翌日の朝に「避難してください」と町内アナウンスが流れました。その時は一時的な避難だと思っていて、何も持たずに避難したのですが、それから大熊町に戻れることはありませんでした。
当時は震災そのものよりも、大熊町から原発事故で避難をしたことによって「賠償金で暮らしている」のようないわれのない言葉を見聞きしてしまうことが辛かったです。
――避難してからは、どのように過ごされてきたのですか?
会津若松市に避難し、中学校2年間を過ごしました。父が浜通りへ単身赴任をしていたのですが、家族全員で過ごしたいと思い、私の高校進学を機に家族で浜通りへ戻りました。
高校は避難地域ではない相馬市にありましたが、被災時の境遇の違いを感じてしまい、大熊町出身であることを言いづらくなってしまいました。そのうち、だんだん自分を保てなくなり、入学して1ヵ月足らずで不登校になってしまったんです。
けれど、演劇部に勧誘してもらい演劇部だけには通っていました。そこでは自分のバックグラウンドを含めて受け入れてもらえる安心感があって、演劇に夢中になれたんです。それでもやはり息苦しさからは抜け出すことはできなくて、通信制の高校へ編入をしました。
演劇と出会いが前進する力に
――演劇との出会いは佐藤さんにとって大きなものだったのですね。
当時は演劇が心の拠り所でした。通信制の高校に編入して演劇ができなくなってしまったことが心残りだったのですが、母が新聞で舞台演劇の募集記事を見つけてすすめてくれました。「チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト」という、中高生たちが舞台作品づくりに挑戦する企画です。そこで出会った大人たちは、私のことを特別視することなく、誰にでも対等に接してくれました。そのことがうれしくて、演劇が楽しくて、自分がどんどん自発的になれることを感じました。
尊敬するスタッフさんたちが卒業したという大学の話を聞き、自分もそこへ行きたい一心で受験にも挑戦しました。無事に合格して東京の大学に進学し、演劇学部に入って充実した大学生活を送ることができました。あのとき演劇プロジェクトに参加していなかったら、今の私はいなかっただろうなと思うくらい、自分の人生を後押ししてくれた存在です。
――演劇に夢中だった佐藤さんが大熊町に移住するきっかけは何だったのでしょうか?
大学4年の時に新型コロナウイルスが流行したことです。
感染が拡大すると、観客が密集する劇場は真っ先に閉ざされてしまいました。この状況のなか、今の自分の力で演劇で食べていくことは難しいと判断し、演劇以外で自発的になれることは何だろうと考えました。その答えが「大熊町」でした。
私は、「ただいま」と言える場所は大熊であってほしいと思い続けてきました。そして、町のために役に立てることがあるなら携わりたいという想いを強く抱いていました。
以前、大熊町で復興支援員をされている方にお話を聞かせてもらう機会があって、復興支援員は「コミュニティを作る仕事」だと言っていたことを思い出しました。意を決して連絡をしてみると、すぐにアルバイトをしてみないかと誘ってもらえました。
大学はオンライン授業になり関東に身を置く必要がなくなっていたので、福島に拠点を移し、アルバイトと学業を両立することにしました。そのうち仕事にやりがいを感じるようになり、2020年10月には大熊町の公営住宅に入居。大学を卒業後、公社職員として働きはじめました。
いつか演劇と町をつなげて新しい風を
――大熊町に移住する前後で、気持ちに変化はありましたか?
移住する前は、震災前の大熊町に戻すことが復興だと思っていました。でも、大熊に住んでみたら、時の流れとともに、どんな町だって変わっていくのだということに気づきました。
特に、私が住んでいる大川原地区は立派な役場の建物や住宅ができて、もとの町の様子とはまったく違うものになっています。それを寂しいと思う気持ちもありますが、変化を受け入れて町の歩みを進めていくことの方が大切だと思えるようになりました。
――今後、仕事を通してどのような活動をしていきたいと考えていますか?
これから、かつて町の中心部だった大野駅周辺も再開発が進んでいきます。町が様変わりしても、住んでいた人たちに懐かしさを感じてもらえるようなことに取り組んでいきたいと思っています。
私はこの仕事を通して、イベントの重要性を感じてきました。夏祭りや地域のイベントは、町の人たちが「久しぶりー!」と言い合えて、懐かしさを感じられる大切な場です。今まで大熊町に関わりがなかった人に向けても「楽しそうなイベントをやっているから行ってみようかな」というきっかけを作ることができます。いずれはアートフェスのようなイベントを開き、演劇と結びつけたいと思っています。演劇の文化をこの町に持ち込んで、今までとは違う新しい風を吹き込むようなことをしていきたいですね。
――これから大熊町をどんな町にしていきたいですか?
楽しい町にしたいです。そして、大熊町に来てよかった、関わってよかったと思ってもらえる町にしていきたいです。私自身も大熊町で楽しく暮らしていることを発信して、町を離れた人にも大熊町を思い出してもらえるような小さなきっかけになれるといいなと思っています。
――最後に移住を検討している人に向けてメッセージをお願いします。
大熊町は皆さんが想像するよりもチャレンジにあふれた町です。地域課題がたくさんある分、自分がやりたいことも実現できる可能性を秘めています。ぜひ、一度足を運んでこの町を体感してください。求む、挑戦者!
■一般社団法人おおくままちづくり公社
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※所属や内容は取材当時のものです。
取材・文:奥村サヤ 写真:中村幸稚