移住者インタビュー

大熊町の暮らしで得た「つながり」を地域のために活かしていく

2023年5月9日
大熊町
  • 転職
  • 起業・開業する

  • 移住したきっかけ
    被災地の復興を現地で支える仕事がしたかった
  • 大熊町で独立開業した理由
    人をつなぐ仕事を通して地域の将来に関わり続けたいから
  • 地域に必要と思うもの
    人の多様性(年齢、職業など)

HITOkumalab(ヒトクマラボ)代表の佐藤亜紀さんは、千葉県の出身。2014年に福島県浜通りへやってきて10年目を迎えました。現在は「大熊町のつなぎやさん」を名乗り、町の復興支援員を務めた経験を生かして地域コーディネートやコミュニティ支援を行うほか、一般社団法人HAMADOORI13の事務局として若者の起業サポートにも携わっています。そんな多彩な活動を展開する佐藤さんに、移住の経緯や地域への思いをうかがいました。

大熊の人たちと一生関わり続けたい

――東京から福島へ来られた経緯を教えてください。

母の実家が双葉町で、子どもの頃からよく遊びに来ていました。その大切な「思い出の場所」が大震災と原発事故で大変なことになってしまった。東京で仕事を続けながらもずっと被災地のことが頭を離れず、震災から3年たって、もう現地に行くしかないと思ったのです。

それで、双葉町の隣、大熊町の復興支援員の募集を見つけて応募し、当時町役場の支所があったいわき市に移り住みました。2014年6月のことです。3年後、仕事を通じて知り合った大熊町出身の男性と結婚、2019年4月に町の一部で避難指示が解除されたと同時に町内へ引っ越し、現在は夫の実家の敷地に新築した家で暮らしています。

――大熊町への移住は、ご結婚がきっかけだったのですか?

いえ、そうではなくて。復興支援員に着任した当初は定住するつもりはなく、なんとなく3年くらいかなと思っていました。支援員の任期は1年ごとの更新ですし、そもそも自分がどれだけ役に立つかわかりませんでしたからね。でも、仕事を始めて半年後には、もう「一生ここにいたい」という気持ちになっていました。

担当したのは「コミュニティ支援」でしたが、最初は何をしていいかわからず、ひたすら町民の方々を訪ねてお話を聞く日々。そうしているうちに、大熊の人たちが大好きになっていったのです。だって、あれほどの苦労を経験されたというのにみなさん明るくて優しいし、震災や原発事故のことを笑い飛ばせるくらいのパワーを持っている。なんてかっこいいんだろうと。その姿を見て、この人たちと一生関わり続けたい、避難指示が解除されたら絶対に大熊に住むぞ、と心に決めました。

辛い時期も乗り越え、「人をつなぐ」仕事で独立

――その後に民間団体へ転職し、ご自身でも開業されました。現在のお仕事を教えてください。

2021年春、7年間務めた復興支援員を辞め、一般社団法人HAMADOORI13に参画しました。浜通り13市町村が連携して地域全体の発展を目指そうという団体です。ここで私は、13市町村で起業または新規事業立ち上げを志す若者(震災当時22歳以下)を支援する「HAMADOORIフェニックスプロジェクト」の事務局を担当しています。このプログラムは、資金的な援助だけでなく、地元の中小企業経営者らが先輩として伴走支援するのが特徴で、これまでの1期・2期で8事業者が採択されています。

そうやって若者たちが夢を実現していく姿を間近に見るのは、私にとってすごく勉強になっています。開業しようと思えたのも、その経験があったからです。きっかけは、支援員時代の実績に基づく地域コーディネートの仕事を私個人にご依頼いただくようになったこと。「人をつなぐ」という意味を込めて、屋号は「HITOkumalab(ヒトクマラボ)」としました。視察の対応やアレンジ、依頼があれば自ら講演も行うほか、おおくまコミュニティづくり実行委員会のメンバーとしてイベントの企画運営も行っています。チラシなどのグラフィックデザインもやっていますし、東京にいた時に歌の仕事をしていた経験を生かして、地元の音楽サークルに所属してイベントで歌を披露したりもしています。

――マルチプレーヤーですね。さらに農業もやっておられるとか。

自宅の庭に夫の祖母が育てていたキウイの古木があって、毎年50キロくらい収穫できるので、主に加工用としていくつかの団体で使っていただいています。ニンニクも作っていますし、今年(2023年)はいよいよコメ作りにも挑戦。実は、ずっといちばんやりたいのは農業なんです。近所の人にトラクターの操作を習い、今朝も田んぼを耕していました。いずれは農業だけで暮らせるようになるのが夢です。

――とても楽しそうに生活されていますが、こちらに来てから悩んだことはありませんか?

トラクターの操作も習得した佐藤さん

それはありますよ。特に支援員を辞める直前の1年ほどは、いろんなことを考えすぎて夜も眠れないくらい辛い時期でした。もっと広域で連携すべきなのに、とか、なにより、もっと若者を大事にしなければいけないのに、とか。このままで本当に大丈夫かという不安でいっぱいでした。

そこで自分に何ができるか、と考えた結果が現在の職場への転職でした。いま、こうして広域連携を推進する民間団体で若者の起業支援に携わることができているのは、本当にご縁の力だと思いますね。当時気になっていた部分は、今では少しずつ良くなってきていると感じています。

いろいろな人がいてこそコミュニティ

かつて町の名産品だったキウイ。育てた果実は加工用に出荷している

――いま大熊町にはどんな方々が住んでいますか?生活に不便はないでしょうか?

ざっくり言うと、町の居住人口は1,000人弱で、そのうち帰還した町民は約2割、私のような震災後の新しい町民が1割、残りの7割が東京電力の関係者です。そして、町の外にはまだ9,800人近い町民が暮らしています。おおくまコミュニティづくり実行委員会のメンバーは、それらのカテゴリから構成されています。私自身そういう多様な人たちの間をまんべんなくつなぐことを意識しています。

最近は若い女性の移住者がじわじわと増えているように感じます。震災当時中学生だった子がUターンしたり、仕事で大熊に関わったのをきっかけに移住したり。その女性たちがみんな仲良く、情報発信にも熱心なことが「大熊っておもしろそう」という印象を生んでいると思います。

生活環境でいうと、私の自宅周辺は家がまばらなので夜は真っ暗ですけど、私はもともと田舎暮らしに憧れがあったので、寂しさはまったく感じていません。車さえあれば富岡町の大きなスーパーまで20分で行けますし、いわきには40分、仙台だって2時間です。町内のJR大野駅から常磐線に乗れば東京もそう遠くないですよ。ただ、町内には小さな診療所(内科)があるのみで大きな病院がありません。特に女性は、近くに産科・婦人科がないことは知っておいた方がいいですね。

――そんな大熊町をはじめ、この地域に移住を考えている人にメッセージをお願いします。

まず町をよく知るところから始めて、「課題」を見つける前に「良いところ」を見つけて好きになってもらえたら嬉しいです。それから、もっといろいろな人に来てほしい。フェニックスプロジェクトで支援しているような、起業を目指す人だけじゃなくていいんです。働く場所もありますし、アルバイトしながら今の大熊町を楽しもう、という人でも全然問題ありません。多様な人がいてこそコミュニティが生まれるのですから。

ある方がこんなことを言っていました。この地域の人は全員が一度町外に出て「移住者」となる経験を味わっている。だから移住者の気持ちを理解し、受け入れる土壌がある。それがすばらしいと。そのとおりだと思います。特に大熊町・双葉町は周辺自治体と比べても避難指示解除が遅かったからこそ、「しがらみ」が薄まって自由度が高い。そういう意味でも、ここは“移住初心者”の方に向いているのではないでしょうか。

佐藤 亜紀(さとう あき) さん

1982年、千葉県生まれ。東京で音楽関係の仕事に従事。2014年、当時全町避難中だった大熊町の復興支援員となり、いわき市を拠点に町民のコミュニティ支援を担当。2019年4月の大熊町の一部避難指示解除とともに町内へ移住。2021年4月、一般社団法人HAMADOORI13に転職し、主に若者の起業支援(フェニックスプロジェクト運営)に携わる。2022年6月、HITOkumalab(ヒトクマラボ)の屋号で開業。「大熊町のつなぎやさん」を名乗り、地域のコーディネーターとして活躍している。

※所属や内容は取材当時のものです。
取材・文:中川雅美 撮影:五十嵐秋音